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自分解釈用「真珠の耳飾りの少女」(その1) [映画・DVD]

 最近になってようやく、以前からずっと観たかったこの映画真珠の耳飾りの少女をDVDで観ることが出来ました。

 実はもっと早く観る機会が何度も有ったのに、偶然見掛けた個人の方の評をNetで読んで「ふーん、そんなものなのかぁ」なんて、ちょっと気持が冷めてしまっていたのです。 

 でもそれは間違っていました。人のマイナス評に惑わされずに、もっと早く観るべきだったと後悔しています。ワン・シーン毎に拘り抜かれた室内セットと美しい映像はまさにフェルメールの絵画の世界をそのままに再現しています。何気ないシーンに様々なフェルメールの作品が埋め込まれているような、いや、全てのシーンが彼の作品に繋がって撮影されているかのような気さえしています。

 ストーリー自体は創作ですから、それには様々なご意見も有ると思います。フェルメールの描画技法などについてアカデミックに探求されているような方には、ちょっぴり首を傾げてしまうような描写も有るのかも知れません。実際僕が読んだ批評文も、「事実にそぐわない陳腐な甘ったるいラブストーリー仕立てでつまらない」との厳しい内容でした。

 しかし、難しい学術的なことを抜きとすれば僕はこう云った「行間」を読み取らなければならないような話は元々嫌いではありません。主人公達の心の内側、少女の異性への憧れ、恋、愛、欲望、そのどれもが微妙に揺れて描かれ、決してはっきりとは語られませんが、それは全て見る側の想像や咀嚼力に委ねられているのであり、観た人の感ずるところ、思うところが、この映画のストーリーが完結する場所なのです。

 僅かな指の動き、表情、視線の移ろいから我々が欲するところの感情を読み取らなければならないのは、なかなかにやっかいでは有ります。なんとも曖昧で、不安定で、二度三度と繰り返しじっと観て、初めて気が付く事が幾つも有ったりして。きっと主人公自身も判らなかった、確かめられなかった疑問点についてああでもない、こうだったのかも知れない等と考えているわけで、多分、脚本家が構成として頭に思い描いた“正しいところ”は、僕が導き出すのは難しいだろう事も判っています。

 それでも、映画を見終わってから改めて「真珠の首飾りの少女(=青いターバンの女)」の彼女を見つめると、今にも真実を語り出しそうなその唇が、余計に甘くミステリアスな魅力を増していることに気が付くのです。

 この絵に描き出された彼女の「心」とは?。その「心」をフェルメールはどう受け止めていて、どうしたかったのか、どう出来なかったのか。

 これはあくまで自分の為に書くのです。もっと徹底的にこの映画のストーリーの真意を探りたい、登場人物達の心の機微を深く捉えたい、そしてそんなシーンに実際にフェルメールの絵を当てはめてみたい。そう考えた僕は再度DVDを観ながら、ストーリーを文章に書き起こしてみることにしました。多少の自分なりの解釈は加わりますが、こう云うことでこのシーンは存在するんだ、って自分なりの確認の方法にしたかったのです。

 そんな自分の欲求に従う上で、偶々blogというメディアがそれを手っ取り早く視覚的に実現出来、かつ残せるものだからここに書いてみるわけです。しかしこれは、これからこの映画を観てみようと少しでも思っている方にとっては、全く不向きなものとなるでしょう。きっと読まない方が良いと思います。だってストリーそのまま書き出すつもりなんですから。こんな長い前置きを読んで貰って申し訳ありません。くどくも繰り返しますが、これは自分がもっと解釈したいが為の、自分の為のページなのです。


Girl with Pearl Earring

 タイル職人の娘グリート(スカーレット・ヨハンソン)は、不幸にも火傷で視力と手の自由を失った父の代わりに一家の生計を支えるため、さる資産家の家に使用人として奉公に出なければならなくなった。雇い主の家はカトリック。非カトリックで敬虔な信仰心を持つ彼女の母親は宗派の違いを不本意を感じながらも、それをどうする事も出来ずにグリートを送り出す。

 映画はグリートが使用人として働きに出る直前、彼女が家族の為に最後の家事をしている場面から始まる。玉葱、トレヴィス、ニンジン、ビート、キャベツなど、様々な色合いの野菜を切り揃え、まるで静物画の為の画題を並べるが如く几帳面に、かつ拘って皿の上に配置するグリート。このシーンは彼女の色彩感覚やレイアウト・センスが、こうしたことにより培われたのだと暗に匂わせているのだろう。

 舞台は1665年のオランダはデルフト。小脇にちょっと抱えれば済むほどの小さな荷物一つでグリートはやって来た。運河のすぐ目の前の石造りの建物が雇い主の画家、ヨハネス・フェルメール(コリン・ファース)の家だ。着くや否や使用人としての繁雑多忙かつ過酷な日々が彼女に訪れる。光の全く届かない床下の物置を寝床として宛われたグリートの心の支えは 、出掛けに父が手渡してくれた手製の絵付きタイル1枚のみであった。

「デルフトの風景」


 

 只でさえ息つく暇も無く働かされるグリートは、或る日フェルメール夫人・カタリーナ(エッシィ・デイビス)から画家のアトリエの清掃を任される。室内のものを決して動かしてはならぬ、在るが儘に掃除をするのだと命じられた彼女は忠実に仕事をこなすが、ふと視線をやった先にあった、描きかけのフェルメールの絵に、ひと目で心を奪われてしまう。その絵がこの「真珠の首飾りの女」だった。

「真珠の首飾りの女」

 当時のフェルメール家は決して財産が有り余るような裕福な状態では無く、むしろ窮していたと云っていい。彼の一方ならぬ拘りは常に絵の完成を遅らせ、一家は夫人・カタリーナの実家の財産を売り払って何とか凌いでいたのだ。夫人は過去にその事でフェルメールを激しく責め、罵り、絵を台無しにしたことがある。それからのこの夫婦には、どこか刺さった棘がずっと残されたままのような空気が漂っているのだ。それなのに子供だけが増え続けて、そのことを女中に毒づかれているのは、妻の実家の財産と体の関係だけが画家を妻に繋ぎ止めているのだと使用人に見透かされているからに他ならない。

 経済状況がこんな有様なのは出入りの商人達にも知れ渡っている。グリートは先輩女中タンネケ(彼女は「牛乳を注ぐ女」のモデルと云われている)に連れられ、市場にある精肉店へ食材の買い出しに行く。新鮮でない肉を手渡された彼女は匂いでそれと気づき、納得行くものと交換させる。精肉店の主人は「払いはいつものツケだね」と、ひとくさりは入れるがそんなグリートに感心した面持ち。その息子のピーターに至っては、この出会いで彼女を見初めてしまうのだ。

「牛乳を注ぐ女」・・・タンネケがモデルとされている

★ ★

 

 一向に収入の目処が立たないものの、子供ばかりが次々生まれるフェルメール家に、新たな命の誕生と共にいよいよ待望の絵(前述の「真珠の首飾りの女」)が完成と云う好事が重なった。フェルメールの絵のセールス・マネージャーとも云うべき義母マーリア・ティンス(ジュディ・パーフィット)はこの機会を逃さず、次回の受注に繋げるべくパトロン、ファン・ライフェンを招いて精一杯の宴を豪華に催す。しかし、ライフェンは筆の遅いフェルメールよりも次回はレンブラントに学んだ男に既に発注済みだとつれなく答え、待望の注文は受けられなかった。しかし、義母と妻の落胆をよそに、たとえ注文の無いままであってもフェルメールは意欲的に次作に取りかかる。

 或る日、グリートはフェルメール夫人にアトリエの曇りきったガラス窓を拭き掃除して良いものかと訊いた。夫人は下らないことを一々訊かないで、と不機嫌に答えるが、グリートは部屋の光線の加減が変わってしまっても構わないのですか?と更に尋ねた。これを傍らで聞いていた義母は驚く。この貧しい使用人の少女にはフェルメールの作品に対する深い理解力が備わっているのだと気付いたからだ。しかし夫の創作にとって如何に光線が重要なものであるかを全く理解しない妻は「勿論拭いて頂戴」とグリートに伝える。グリートはその言葉を受けて、窓を拭く為にアトリエへと戻って行った。

 

「画家のアトリエ」

 グリートが汚れて曇りきった窓ガラスを水を浸した雑巾で拭っているとフェルメールがアトリエへやって来る。二人きりでの最初の接点。窓を拭く彼女の姿をそっと眺める内、彼は作品に対するインスピレーションを感じ、次々にポーズを取らせる。一方、フェルメールに対するグリートの気持もこれを契機にざわつき始める。彼女の淡くそして密かに燃え上がるような想いは、この日から静かに始まったのだ。

 フェルメールとの出会いの他には胸躍るような事など何一つも無く、只々仕事に明け暮れるグリートの心の救いは、離れて暮らす父母、弟に会える日曜日の教会のミサ。そこへ彼女に思いを寄せる精肉店の息子ピーターがやって来る。家族で居るところに自分目当てに現れた彼にグリートは戸惑い半ば呆れるのだが、思いの外礼儀をわきまえ接するピーターを悪しからず思ったグリートの母は、彼とグリートを二人きりで歩かせてあげようと口実を作って立ち去った。年頃からも端から二人は似合って見えていたのかも知れないが、グリートの心はそこには無かった。その時の彼女の心には、ぼんやりとだがフェルメールと彼の絵が映っていただけなのだから。 

★ ★ ★

 両膝を着いて床を磨くグリートの手にした雑巾に、突然杖の先が突きつけられる。驚き見上げると、フェルメールの義母が唐突に話し始めた。フェルメールが新作に取りかかったこと。但しその作品には注文もなく、義母にさえその製作中の絵を見せないのだと聞かされる。突然の出来事に戸惑うグリートであったが、その話に彼女の表情はみるみると好奇心に満ち始め、溢れる興味を抑えられなくなる。フェルメールの義母は何を意図して彼女にそんな事を伝えたのだろう?。そんな疑問一つさえも、何も思い浮かべないままに。

 少しの後、フェルメールのアトリエに横幅30~40cm、縦1mもあろう大きな木製の箱が運び込まれた。グリートが掃除の手を止め佇み、それをなんだろうと眺めていると背後からフェルメールがやって来る。彼はこの好奇心旺盛な娘に、その箱「カメラ・オブスクラ(一種の針穴式カメラ)」の原理を説明し、レンズを通し箱の中に映し出された映像を見せる。初めて見る「映像」に驚くグリート。ちょっぴり彼女を吃驚させてやろうと軽い気持でいたフェルメールは、グリートが口にした「箱を覗きながら書くの?」と言う何気ない一言に思わず笑ってしまう。しかし舞台は17世紀。まだ写真という、目の前の風景を切り取り残す技術や概念が一般に無い時代の話だ。次の瞬間、すぐに彼は構図を捉えるのに面白いアイディアだとその言葉に感心し、次第にグリートに興味を惹かれるようになってゆく。フェルメールもこの若い娘が自分の作品の理解者たることに気付いたのだ。

 徐々に画家との距離が縮まるグリートに、やがて嫉妬の目が向けられ始める。先ず、年頃の近いフェルメールの娘・コルネーリアが次第に反感を募らせてゆく。彼女はこの映画中ではほとんど父と触れ合うことなく描かれ、むしろ庭で無邪気に遊びはしゃぐところを叱り付けられるなど、思えば可哀相な娘だ。自分が相手にされないのに、使用人たるグリートの方が父と二人、よっぽども言葉を多く交わしている様に我慢がならなかったのだろう。グリートが干したばかりのシーツに、目の前で泥をいっぱいになすり付けるなど、あからさまな嫌がらせを始める。怒りに気持が高ぶったグリートは相手が雇い主の娘であることを忘れ、その頬を平手で打ってしまう。その晩、地下の暗闇の寝床に戻ったグリートは呆然とする。彼女の持ち物はめちゃくちゃにされ、父から渡された大事なタイルも無惨に割られてしまっていた。

(“その2”:http://blog.so-net.ne.jp/ilsale-diary/2006-01-27 へつづく)


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