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NEVER LET ME GO ~ わたしを離さないで [本]

 私を離さないで
 あなたがもし私の下を去っていったなら、
 私はきっと途方に暮れ果ててしまうでしょう
 1日が千時間に思える程に
 あなたなしでは、私には分かっているのです

 あなたに一度抱きしめられてから、私の世界はすっかり反転してしまった
 最初の瞬間に
 燃え上がった心の炎で私の橋は全て焼け落ちてしまったわ
 あなたは私を置き去りになんてしないでしょう?
 私を傷つけたりなんてしないでしょう?
 私を離さないで
 私を離さないで

(♪"NEVER LET ME GO" / R.Evans & J.Livingston)
※上記は歌詞の一部を意訳したものです)

 今回は僕のblogとしては珍しく小説のお話を。でも、その入り口は先ず音楽から。

 "NEVER LET ME GO"と云うタイトルのジャズ・スタンダード・ナンバーが在るのをご存じでしょうか?。愛しい人と、決して離れたくないと願う気持ちを歌った、甘く切ないバラッドを。

 この曲は、元々1956年制作の日本未公開映画、『SCARLET HOUR』の為に書き下ろされた挿入歌でした。映画の評判はどうやらあまり芳しくなかったようですが、挿入歌の方はその後ナット・キング・コールに採り上げられ、彼の名唱に依って世に広く知られるようになります。そして、その誕生から50年以上が経った今も、多くのミュージシャンや歌手たちに演奏され、歌い継がれ、ジャズ・スタンダードとして認められるに至っています。

 センチメンタルな詞の内容も手伝って、どちらかと云えば女性歌手がレパートリーにする事の多いナンバーですが、あまりに感情表現が大袈裟だったりウェット過ぎるのは僕はご勘弁。哀感は湛えつつも穏やかで、どこかサラリとした肌触りのするタッチで歌われるのが理想です。元祖とも基本とも云えるナット・キング・コールのヴァージョンも、粋でロマンティックなムードに溢れたものでしたから。

 そんな僕の好みにぴったり添うのが、イギリス在住のジャズ・シンガー、ステイシー・ケントが昨年リリースした最新アルバム『BREAKFAST ON THE MORNING TRAM』でのヴァージョンです。

 でも今日、ここでお話したいのは、そのステイシーの歌う"NEVER LET ME GO"についてではありません。彼女のアルバムがきっかけとなって、その曲と題名を同じくする小説が在る事を知ったのです。それが、日本生まれのイギリス人作家、カズオ・イシグロの著書・『わたしを離さないで』でした。



 僕は活字を読むのは好きなのですが、普段目にする物は新書の類や美術に関する物が多く、特に現代を舞台とした小説は殆ど手にしません。ですから、ブッカー賞の受賞歴を持つカズオ・イシグロの名前さえ、つい最近まで全く知りませんでした。彼を知ったのもその本業からではなく、前述のステイシー・ケントのアルバムに4曲分の詞を提供した「作詞家」として、でした。

 1997年に『THE TENDER LOVE』でデビューして以来、ステイシーは前作の『THE BOY NEXT DOOR』(2003)までに計6枚のアルバムをリリースしていましたが、常にスタンダード、もしくはバート・バカラックやキャロル・キングなどのポップスのカヴァーをレコーディングして来ました。オリジナル作品を歌うのは今回が初めてとなります。その詞を担当したのが、イギリスの権威ある文学賞受賞作家。それもその人は日系人だと云うのですから、気にならないわけがありませんよね。

 ステイシーは元々イシグロの作品の読者で、たまたま彼が出演するラジオ番組を聴いていたところ、彼のお気に入りとして選ばれオンエアされた曲がなんとステイシーの歌。面白いですよね、お互いがお互いのファンだったと云うわけなのです。この事をきっかけにコンタクトをとり面識を得た二人は友人となりました。そして、今回フランスのBlue Noteレーベルに移籍し新境地をめざすステイシーの為にイシグロが一肌脱ぎ、強力な援軍(=詞の提供)を差し向けてくれたと云う次第。『BREAKFAST ON THE MORNING TRAM』と云うアルバムのタイトル・チューンも彼の作詞です。「朝の市街電車で朝食を」って、どんな意味???。当然、あの映画のタイトルは意識にあったそうですが、Morning Tramには「旅立ち」「出発」と云った意味を含ませているのだとか。歌の作詞は自身初の作業だったそうですが、さすがに言葉を操る作業はお手の物。如何にも文学者らしいレトリカルな表現ですよね(^^;。

 ここから僕の興味はイシグロへと向かいます。この人、いったいどんな小説書いているんだろう?。

 そこで現在手に入る作品を検索してみたところ、幾つかの彼の著作の中から、『わたしを離さないで』と云うタイトルが目に飛び込んで来たのです。今、丁度毎日のように聴いているステイシーの新しいアルバムの中で歌われている曲と同じ名が冠された作品です。彼女はこのイシグロ作品を読んだ上で、意図してこの"NEVER LET ME GO"をアルバムに採り上げたのかもしれない。イシグロは僕にとって全く予備知識の無い作家です。何から読んでみようかと思案していた僕に、これは丁度好いキーワードになってくれそう。元より好きな曲ですし、なんとなくですが、イシグロも冒頭に載せたこの歌の詞の世界をイメージしながら、作品を書き上げて行ったのかも知れないな、とも思えました。

 こんなふうに考えて、僕はこの本を読んでみることにしたのです。



 さて、物語は1990年代末のイギリスを舞台に、介護人の仕事をしている31歳の女性、キャシー・Hの幼年期から現在に至るまでの回想と云う形で進行して行きます。彼女が育った寄宿施設、ヘールシャムでの出来事が思い出として語られるのです。中でも軸となるのが、彼女のその後の人生を通じ、酸いも甘いも分かち合う事となる2人の友人との関わりです。癇癪持ちだったために、皆から仲間外れやからかいの対象とされていた男の子トミーと、少しばかり我が儘な女の子で、常に友人達より上位に立とうとするなど虚栄心の強い親友ルースとのことなど、ごく普通に、誰にでも思い当たるところが有る様な子ども同士のふれあいの情景が綴られます。

 ですが、我々読者は彼女の淡々とした思い出話の中に、何かしらモヤモヤとした違和感を覚えさせられるのです。例えば僕は当初この違和感を、英国の寄宿学校と云う一種独特の環境に於ける文化習慣の違いから来るもので、ただ単に、日本人にあまり馴染みのない事柄が語られているのだろうと自分を納得させていました。しかし、以降もごくさり気なく、普通の様で普通でない言葉や事柄がそこここに嵌め込まれて行きます。ただぼんやりと読み流してしまうことを読者に許さず、かと云って、取り立てての緊迫感などはまるで漂わせずに。

 その違和感は、やがて謎に変わって行きます。彼、彼女たちは一見ごく普通の寄宿学校生のように育てられながら、何かが確実に違っているのです。

 ただ、その謎はキャシーを含め、ヘールシャムで育つ全ての子ども達自身にとっても謎、疑問である「何か」を含んでいます。彼等もまた、未だ全てをはっきりとは知らされていないのです。読者の疑問意識は、やがて子どもたちのそれと同一化されて行きます。登場人物達が何かを知りたがり、やがて知るに至って、パズルのピースが組み合わされる様に、ヘールシャムの子ども達がこの先どんな使命を負わねばならないが為にこの世に生を受けたかが、つまびらかにされて行くのです。



 ここまで書いて、僕の思考はぱたりと止んでしまいました。僕はこの本に深く感じ入ったからこそ、今回のこの文章を書き始めました。この本を、面白いよ、読んでみるといいよ、と人に伝えたいと感じたからこそ、です。ところが、僕の書いた物を読んで下さった人こそ、この本を読む気を無くしてしまうのではないかと、書けば書くほど矛盾を感じ始めてしまったのです。感想を述べる事で、未読の方に粗筋や結末を伝えることになってしまえば、僕はその人たちからこの本の冷静で精巧な筆致の味わいを奪うに等しい。やはり、この本は余計な先入観を何も持たずに、まっさらな状態で読んで頂いて、現実と非現実の狭間でそれぞれが感じるところを大切にすべき作品だと思うのです。

 なんだか、言葉にしたいのに言葉に出来なくて、とてももどかしいのですが・・・。



 Never let me go
 わたしを離さないで

 作中に登場する架空の歌手、ジュディ・ブリッジウォーターによるその歌は、描かれる歌詞からしてやはりこちらも架空の同名異曲の様。ですから、作者、カズオ・イシグロがどれほどスタンダード版の"Never let me go"の歌詞の世界観を彼の著作中で意識していたかなど、僕には知る由もありません。幾らイシグロがジャズ好きだからと云って、全く関係が無い可能性すらゼロではありません。ですが、ここでは飽くまで僕の思うところ、本の内容ととても似合っている、とだけお伝えしておきましょう。

 この本を読んだことで、前にも増して僕はこの曲が好きになりました。自分の中では、ちょっぴり「水分含有量」が増量したようにも思えます(^^;。サラリとした肌触りの方が好きだ、なんて云ってたクセに・・・、ね。






ステイシー・ケントに関連する過去記事

・Stacey Kent Live@Cotton Clubhttp://ilsale-diary.blog.so-net.ne.jp/2006-04-09

・ステイシー・ケント / "IN LOVE AGAIN"http://la-musica-jazzpoino.blog.so-net.ne.jp/2005-10-19
・ジム・トムリンソン featuring ステイシー・ケントhttp://la-musica-jazzpoino.blog.so-net.ne.jp/2006-Agost-04

YOUTUBEhttp://youtu.be/xvyYKGq3W2k
(※発売元レコード会社であるSONYの管理下にある音源にてフル・コーラス聴けます。)


わたしを離さないで

わたしを離さないで

  • 作者: カズオ イシグロ
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2006/04/22
  • メディア: 単行本

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

  • 作者: カズオ・イシグロ
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2008/08/22
  • メディア: 文庫

市街電車で朝食を

市街電車で朝食を

  • アーティスト: ジム・トムリンソン,グラハム・ハーヴィー,ジョン・パリセリ,デイヴ・チェンバレン,マット・スケルトン
  • 出版社/メーカー: EMIミュージック・ジャパン
  • 発売日: 2007/09/05
  • メディア: CD

Breakfast on the Morning Tram

Breakfast on the Morning Tram

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: Blue Note Records
  • 発売日: 2007/07/13
  • メディア: CD
(追記) 全くの蛇足で、こんなことをいちいち説明したくはないのですが(^^ゞ、歌詞にある「燃え上がった心の炎で私の橋は全て焼け落ちてしまったわ」と云うのは、橋が焼け落ちる→渡ってしまった私はもう戻れない、つまりは、この恋は後戻りなんて出来ないと宣言しているわけですね。
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TaekoLovesParis

1週間前、ここの記事で本の紹介を読み、カズオ・イシグロに興味。難しそうな本ではなく、Never let me go という歌が下敷きということで読みました。
おもしろかったです。まだ余韻が残っています。

サスペンス小説を読むのと同じ感覚。次が気になって、どんどん読み、買った日に読み終わりました。
謎解きに矛盾がないよう緻密な構成。中心となる人物像がはっきり描かれて
いて、すぐそばにいる誰かのような共感をそそる。

ステイシー・ケントの”Never let me go ”を聴くと、キャスがひとりでスローダンスを踊っていた情景が浮かびます。without youというフレーズが抑えた叫びのように聞こえ、哀しみが伝わってきます。
いい本を教えてくださってありがとう。
この作家の「日の名残り」も読んでみたいです。
by TaekoLovesParis (2008-02-22 21:59) 

yk2

taekoさん、こんばんは。

面白かったと云って頂いて一安心です。
ま、歌がアイディアの下敷きだったってワケじゃないみたいですけどね。
ネット上で作者のインタビューを見つけましたので、お読みになって見て下さい。なかなか興味深いですよ。
※このインタビューも、未読の方は出来れば読了なさってからお読みになることをお勧めします。

http://www.globe-walkers.com/ohno/interview/kazuoishiguro.html

本人は、これはサスペンスとして書いたんじゃないよ、って主張してますが、読者は“静かなるサスペンス”のように捉えた人が多いようですね。

『日の名残』は僕も読んでみようと思っています。どんな話なんでしょうね。『わたしを離さないで』の巻末にある解説を読むと、双方はだいぶスタイルが違うとのことですから。
by yk2 (2008-02-22 23:01) 

Inatimy

曲も、歌手の声も知らないまま、
歌詞を読んで、演歌っぽいような印象を受けました。
だから、なんとなく、身近に感じられます♪
これが、ポルトガルのファドだったら、
「それでも行ってしまうなら、仕方がないわ、
私は、私で生きて行く、あなたの思い出かみしめて・・・」
みたいな感じになるのでしょうけれど・・・。
by Inatimy (2008-02-25 07:27) 

yk2

◆てんとうむしさん :

映画化されていることを知って、是非観てみたいなと思っているのですが、昨年限定再発されたDVDは現在すでに絶版で、流通在庫のみだそう。値段は1500円くらいらしいので、もし目に着いたら購入してみようと考えてます。

◆Inatimyさん :

え~、演歌っぽいですか~(苦笑)。
それはきっと僕の意訳の所為でしょうね(^^;。

>「それでも行ってしまうなら、仕方がないわ、
>私は、私で生きて行く、あなたの思い出かみしめて・・・」

あはは。Inatimyさん、メロディーがつかないとこれも演歌ですよ~(笑)。

ファドは哀愁漂い叙情性が高い音楽ですから、それこそ日本の演歌の世界に共通するものが有るかも知れないですね(笑)。

by yk2 (2008-02-28 21:17) 

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