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大・開港展“徳川将軍家と幕末明治の美術”@横浜美術館 [ART]

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 11月最初の金曜日(6日)、夕方から横浜美術館へと出掛け、夜間展示(※毎週金曜日開催。企画展入館は19時30分まで、20時閉館)を利用して、現在開催中の『大・開港展“徳川将軍家と幕末明治の美術”』http://www.yaf.or.jp/yma/jiu/2009/exhibition/daikaiko/)を観て来ました。
 これは、横浜開港150周年横浜美術館開館20周年を同時に祝う記念すべき企画展であり、その内容も、僕が生まれてこの方ず~っと横浜市民だと云う贔屓目を差し引いても、なかなかに素晴らしい展覧会になっていると、胸を張って断言出来ちゃいます。
 特に、先日の3日まで上野の国立博物館で開催されていた『皇室の名宝展』の第1期をご覧になって、明治の帝室技芸員たちによる至高の工芸品に心を鷲掴みにされてしまった皆さん。こちらにも、あの御物に勝るとも劣らない名品の数々が展示されていますよ。何しろ、作者たちがまるっきり一緒なのですから(^^。決してお見逃しなく[exclamation]




 激動の幕末が終わり、新たな日本の夜明けと謳われた明治維新の頃、続々と未知の西欧文化が日本にもたらされる玄関口として、文明開化の象徴ともなった港・横浜。鉄道、近代水道、ガス灯、牛鍋、あいすくりん(アイスクリーム)、ビール、テニスに野球と、この街に初めて伝えられ、やがて日本中に広まっていった物には枚挙にいとまがありません。ハマっ子は“あたらしもの好き”と云われて好奇心旺盛。常に流行の先端を行かなくては気が済まなくて、東京なんて大した事ないからと、まるで気にしない素振り(本心はどうだったかは別でしょうが^^;)。僕が子どもの頃(昭和40年代)の横浜は、まだそんな明治以来の気っ風が確実に残っている街でした。

 その横浜で生まれ育ったなら、この地は明治以降の海外貿易港として大いに繁栄したのだ、と必ず歴史の授業で教わります。全ては、何もなかった半農半漁の寒村だったこの地を交易港として選んでくれた徳川幕府のお陰・・・のハズなんですが、そもそもが開国を求める諸外国の圧力に因る消極的な決定だったからでしょうか?、横浜市民には徳川将軍家や幕府に感謝し、それを一般家庭の中で子々孫々語り継ぐような感情は全くと云って良いほど持ち合わせていません(^^ゞ。

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 例えば、僕も含めて、市民の中で一体どれほどの人が、開港の決定を下した大恩人であり、後に攘夷派の凶刃に倒れることとなる大老・井伊直弼に親しみと尊敬の念を感じているでしょうか?。紅葉坂を上った小高い丘から港を見下ろせる掃部山(かもんやま)公園の名が、直弼の官職名であった掃部頭(かもんのかみ)に由来し、ここに大正時代に建てられた彼の銅像が在ることすら知らない横浜市民はそれこそ本当にたくさん、いや、“横浜都民”だなんて言葉が語られるくらいに地元意識が希薄な今となっては、寧ろその公園の存在自体知らない市民の方が余程多いのかも知れません。

 上記の様に、直弼と横浜の繋がり自体をわざわざ改めてここで書かなければならないほど、市民である僕らと徳川将軍家や幕府との繋がりはすこぶる希薄で、余所余所しいものでしかないのです。実際、横浜の街の発展は明治以降の商業政策と民間の努力に依ってもたらされた果実であり、徳川幕府はただ単に横浜村と云う畑を選んで、開港と云う種を撒いてくれただけだと、多くの人が思っているのではないでしょうか。

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 こんな具合ですから、何故、横浜開港150周年記念に徳川将軍家を横浜美術館で取り上げるのかピンと来ない人は市民の間でもけして少なくなかったでしょう。歴史好きの僕でさえ、一寸「あれ?」と思ってしまったくらいでしたから。やっぱりどうしたって将軍家はお江戸のもの。云ったでしょ?、ハマっ子は東京のものには素っ気無いんだって(^^;。


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 そんな余所余所しさを、昨年のNHK大河ドラマで話題となったこの人への興味が補ってくれました。

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◆川村清雄 / 『天璋院像』 (1884=明治17年頃)

 あれを見ていなかったら、天璋院さんの肖像画をこんなにも意識して眺めることは決してなかったでしょうね。ノンフィクションは別にして、僕はあまりTVを見ない方だと思いますが、やっぱりドラマの力は偉大です。篤姫が母から言い聞かせられた教えである「一方を聞いて沙汰するな」は、僕の中で人生の教訓として深く刻まれちゃいましたから(笑)。

 この絵は最後の将軍慶喜が隠居した後に徳川宗家を継ぐ徳川家達の小姓として仕えていた川村清雄(参照→(http://www.spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/_archive/collection/item/O_52_658_J.html))の作品。
 幕臣の子であった川村は幼少期より田能村直入について日本画を学んでいましたが、明治4年に徳川家の給費で渡米、後にパリへ移り洋画を学びます。明治9年にはイタリアに渡り、ベネチア美術学校に学ぶなどして、1881(=明治14)年に帰国。大蔵省印刷局に勤務するものの僅か一年で退職してしまうと、勝海舟の斡旋を得て、幕府御用絵師に描かれることなく大政を奉還した最後の将軍慶喜、天璋院(この絵ですね)、亡き14代将軍家茂らの肖像画を描くことになるのです。

※尚、ここではいきなり天璋院篤姫の話で始めちゃいましたが、この絵は維新を迎えてから描かれた肖像画であり、展覧会の構成上(第12代将軍家斉に始まり基本的に時系列)では後半に登場する作品です。横浜美術館は順序通りでなくともランダムに展示室を廻れる構造ですのでご容赦下さいませ。


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◆小広蓋 黒塗牡丹唐草金銀蒔絵

 こちらは篤姫が実際に使っていた道具。広蓋とは元来衣服をしまう箱だったものが、次第に贈答品などを載せる盆の代わりとして使われるようになり、箱は次第にすたれて蓋だけが作られるようになったものだそうです。黒塗りに美しく映える金銀の蒔絵が本当に見事。篤姫が実際にこれを常用していたのだなぁと思うと、なかなかに感慨深いものがあります。


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◆左、徳川茂栄 / 『徳川家茂像』(1866-67=慶応2-3年)
◆右、川村清雄 / 『徳川家茂像』(1884=明治17年頃) ※画像は作品の一部

 この左の画はやはりドラマの影響でしょうか、昨年は色々な媒体で目にしましたね。篤姫が嫁いだ13代将軍家定が病死し、若干13歳で第14代将軍職に就いた徳川家茂の肖像画。伝統的な狩野派の手法で描かれている他の将軍たちと較べて、どうして家茂の肖像はこんなに変わっているんだろう?。顔の描き様がちょっとマンガみたいですものね(^^;。ここでは隣に家茂の生母・実成院から「如何にして斯様に似たらう」と喜ばれたと云う、川村清雄の描いた肖像画を並べてみました。こうして較べてみると、特徴は上手く捉えている様に思えますね。
 作者欄に名のあった徳川茂栄(もちはる)は御三家筆頭の尾張徳川家の藩主です。図録にもあまり詳しくは書かれていないのですが、実際に茂栄自身が描いたわけでなく、彼が指示して制作されたものと解釈すればよいのかな?。
 元々は陣羽織にての立ち姿で描かせたものの、茂栄が御代所である和宮に出来上がりを見せてお伺いを立てたところ、見慣れぬその出で立ちに御代は違和感を覚え、もっと普通の姿にて、と描き直しを要求されたそう。元のその陣羽織姿の絵は写真に撮って茂栄が大切に保管していたそうで、会場ではその写真と肖像画が見較べられる趣向になっています。


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◆打掛 白綸子卍立涌菊牡丹藤紋様 和宮(静寛院)所用

 会場内で一際目を惹いた豪華で美しい絹地に花柄の着物は皇女和宮のもの。
 僕は今回、この着物を19世紀のヨーロッパ美術に影響を及ぼしたジャポニスムと云う方向から眺めてみました。琳派模様や染物型紙など、着物のモティーフは当時の西洋人の目には摩訶不思議でありながらも、そのユニークな図柄は確実に彼らのデザインに大きく影響を与えてゆくのです。自由奔放でありながら、規律が保たれている、とでも云ったら良いでしょうか。この組み合わせの発想はどこから来たものなんだろう?。


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◆徳川慶喜 / 『西洋雪景図』(1870=明治3年) 油彩 福井市郷土歴史博物館蔵

 徳川時代終盤の将軍達は12代家斉を筆頭になかなか達者な書画の腕前を持った人物が多かった様で(そう云った状況自体が本来の武士の頭領たる本分を忘れてしまっていた何よりの証なのだろうけど)、最後の将軍となった慶喜もその一人。もっとも、彼は大政奉還後は隠居となりひたすら趣味に生きた人で、他の将軍達とはまた全く違った立場の自由人で在ったわけですが。この展覧会にも彼の見事な書、絵画、写真が展示されていました。実は、残念ながらここに掲載したこの油彩画は、僕が出掛けた時には展示替えがされていて観ることが出来なかったものなのですが、図録で見てびっくりしてしまった作品なので、是非ご紹介したいと思います。
 この絵をご覧になってどう思われますでしょうか。何の根拠もない荒唐な想像ですが、僕はフランドルの画家の画風を思わずにいられません。開国以前のオランダと日本の関わりを考えれば、誰かがピーテル・ブリューゲル、もしくは彼に影響されていたような画家の作品を、何らかの形で慶喜に紹介していたのではないでしょうか?。そうして、この風景画がお手本有りの単なる模写であったとしても、制作が1870年と云う時勢(第1回印象派展より前です)を考えると、15代将軍様は日本の洋画の世界では、大した先進性と腕前を持って居られた様に思えるではありませんか。


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◆川村清雄 / 『巨岩海浜図』(1912-26) ※画像は作品の一部 静岡県立美術館蔵

 ここで再び川村清雄の作品を。とても横に長い作品ですので、ここでは左側から全体の5分の3程度しかご覧頂けないのですが、あまりに大きい巨岩はともかく、シャープな筆づかい、海岸での風景描写と云うテーマはモネの師匠格のフランス人画家、ブーダンを思わせるところもあります。僕はこの日まで川村清雄と云う画家を全く知りませんでしたが、殊、風景画に関しては印象派風の素晴らしい絵を描いていた人ですね。もう1点飾られていた『水辺之楊柳』(徳川記念館蔵)ともども、その出来の良さには驚いてしまいました。何故、この時代にこれ程までの油彩画を描いていた画家が、こんなにも知られていないのでしょう???。

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 さて、別段初めから2部で構成するような長い記事を書くつもりもなかったのですが、あれもこれもで省けなくって、ついつい長くなってしまいました(毎度のコト?・・・^^;)。実はこれで、まだ書きたいことのやっと半分くらいなのです(苦笑)。
 本当は、今回未だ何も紹介出来ていない帝室技芸員、例えば宮川香山や正阿弥勝義、香川勝廣、並河靖之らによる素晴らしい美術工芸品の数々をご紹介したくて書き始めたのですから。でも、ぐずぐずしている内に展覧会の会期の残りは、もうほんの僅か(滝汗)・・・。今回は取り敢えず、ここまでのお話で一旦UPさせて頂くことにします。すっごく中途半端でゴメンナサイ。続きは・・・どうしよう[あせあせ(飛び散る汗)][ダッシュ(走り出すさま)]

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◆宮川香山 / 『高取釉蟹高浮彫水鉢』(1916=大正5年以前)

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