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有元利夫展を観る前に知っていると面白いかも知れない幾つかの事柄 / 後編 [ART]

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 子どもの頃の夏休みの宿題じゃあるまいし、展覧会終了前日になって「観る前に」だなんて、今更どんな顔して!と、多大なる顰蹙やお叱りを各方面から頂戴しそうで、本当ならUP出来るようなお話じゃないのですが(滝汗)、まぁ、有元さんの作品は小川美術館でいつまでも・・・ってコトで(^^;、まるで役に立たない前記事の続きを。さすがに今回は自分でも・・・スミマセン(^^ゞ。

参照過去記事 : 『有元利夫展を観る前に知っていると面白いかも知れない幾つかの事柄 / 前編』
(→ http://ilsale-diary.blog.so-net.ne.jp/2010-07-29





5.つまむ仕草は弥勒の指先

 今回のtopに載せた作品、『室内楽』をご覧になって、おや?っと思った方が居られるやもしれません。それについて、考えられる理由の1つとして、この絵をどこかで観たことが有る様な、何かの絵に似ている様な、と云う気がして居られるのではないでしょうか。
 
フォンテーヌブロー派の画家_ガブリエル・デストレとその姉妹の一人.jpg

 僕が思い出したのは、フランス・フォンテーヌブロー派の画家が描いたとされる『ガブリエル・デストレとその姉妹の一人』です。画面構成や色調はもちろんですが、両者に共通しているのは、“つまむ指先”。有元がこの作品を制作するにあたり、ルーヴルに飾られている作者未詳のこの絵を参考にしているのは明らかでしょう。

 『室内楽』では、「手や足を描いてしまえば何をしているかが説明的になってしまう」として、画家が敢えて避けていた描写を採用。珍しく、指先に特定の行為をさせているのが興味深いところ。7つ転がっている赤い小さな球体は、絵のタイトルからしてドレミファソラシの7音階を表しているのはないでしょうか。

 一方、ガブリエル・デストレ姉妹はそれぞれが、指輪と乳首をつまむ仕草をしています。これにはそれなりに意味(新婚整った姉は指輪を、妹は姉の初子のために乳の出が良くなる様に)を持たしているのだ、とされています。この指先による行動は、やはりどうあろうと示唆的で、説明を避けたいと語っていた有元が採用するのは、彼の発言からすれば異例のこと。

 しかし、どうやら有元は、その指先のポーズに、違うものも同時に見ていたようなのです。

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◆有元利夫 / 『朝の雲』(1982)

 この仏画のようなポーズ、指先に、日本人なら誰でも、弥勒菩薩の半跏思惟像などを思わずにいられないのではないでしょうか。

 今回の展覧会の展示物の中に、画家が所有していた木彫の仏像の手が1つ、紛れています。その指先に、有元が何を見ていたか、それに思いを巡らせてみるのも、なかなか面白いですよ。


6.有元利夫とフォロン作品は似ている?

 ところで、以前僕が自分のblogでも紹介した事のある、ジャン=ミシェル・フォロン(参照過去記事→ http://ilsale-diary.blog.so-net.ne.jp/2007-05-31)と有元の作品の雰囲気が似ていますね、とのコメントを頂戴したことがあります。その時の僕は、具体的に何がどうとは指摘出来ないけれど、成る程云われてみれば、彼らの作品の雰囲気には確かに通底する何かがあるかもしれないと感じました。
 例えばですが、二人の絵にはルネ・マグリットを思わせるシュールな部分が確実に存在します。それは観る者の心をざわつかせたり不安にしたりする類のものでなく、共通して、どことなくほんわりとした、温かく穏やかな「何か」。感ずるに、それは僕にとってとても抽象的なものの様ですが、その「何か」って一体なんなのだろう?。

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◆有元利夫 / 『音楽』(1982)

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◆ジャン=ミシェル・フォロン / 『虹のかなた 金曜日』(1980-81)
※写真はアメリカのジャズ・ギタリスト、スティーヴ・カーンのCD『MODERN TIMES』のジャケットより

 ルネッサンスの15世紀絵画を思わせる有元作品と、方や未来の謎の被り物をした様な人ともロボットとも思える何かを登場させるフォロン。それぞれ狙っているものはまるで違っているのに、こうして並べてみると、どこか出来上がった作品は同じ雰囲気を漂わせている様に思えないでしょうか?。


 また、有元作品でシュールと云えば現実には有り得ない体勢(※関節の恐ろしく柔らかい方なら可能かも知れませんが^^;)で宙に浮くこの人物像を思い出すのですが

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◆有元利夫 / 『音楽』(1977)

 宙に描かれた彼(彼女?)には、これから舞い上がる様子も、反対に落下する気配もまるでありません。カードと共に、ただただ、静止した状態で浮遊しています。有元は、「何故浮遊しているのかと云えば、それがエクスタシーの表現であるから、としか云い様がありません」と、自ら述べています。如何にも在り来たりで陳腐な感情表現にも思われる事だけど、嬉しい時、幸せな時、「天にも昇る気がする」と言葉で表現される、その感覚をごくストレートに絵画にしたかったのだと。

 エクスタシーや高揚感の表現などと聞かされると、如何にもアーティスト的で一般の我々凡人には及びもつかない感覚や深遠な発想の様にも思えますが、ごくシンプルに言い換えれば、気持ちよくって、嬉しくって浮かれてます!ってことなんですよね(^^;。それならば、やがて気持ちが落ち着いたところで、この無表情な人物もいつかは何事もなかったかの様に、すっと地面に足を下ろすのかもしれない。そんなふうに想像すると、途端にこの絵が人を食ってると云うか、とぼけてる様にも思えてくるから、僕は愉快な心地になるのです。


 対するフォロンにもこんなポスターがあります。

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◆ジャン=ミシェル・フォロン / 『フォロン展のポスター : ブリュッセル美術館』(1975)

 こちらも、まるで中国雑伎団並の体勢。「こんなん出来ましたけどぉ~」みたいな・・・(笑)。

 
 今回、この展覧会で初めて有元作品を見た友人は「空に浮いている人を見ていたらシャガールを思い出した」と云いました。そうだね、シャガールの作品にも宙に浮く人が何度も描かれているものね。でも、シャガールの描く人は、空を飛んで、どこかへと向かっている、まるで旅している様なイメージが僕には有るんだけどな。シャガールの作品に物語性やメッセージを感じやすいのは、画家本人の伝えたい、絵から滲ませたいと云う意図がそう働いているから、って気がするのです。

 シャガールは空を飛んで鑑賞者を夢の世界へ誘います。自由に空を巡り、あなたをどこかへ連れて行くよ、と画家自身が思わせているのです。

 対する有元とフォロンの二人は、登場人物を空に浮かべて、そこに漂わせているだけ。それも彼らの作品は、高いところを描いている様でも遠近感を強調しない平面的な構成なので、どうにも描かれている人物が大空高く舞っている感覚が薄く、すぐ足の着いてしまいそうな高さなのかと錯覚さえ起こしてしまいます。そうして、浮かべてはみたけど、どこかへ飛ばすわけでもなく、ただその場にぷかぷか。夢のようでもメルヘンを語るでもなく、ただ、気持ちの赴くままに。


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◆有元利夫 / 『ロンド』(1982)

 彼らはどうして浮かんでいるんだろう?。

 そこには特別なメッセージや物語性は色濃く感じさせていないのですから、見る僕らがそれぞれ自分で何かを思ったり、感じ取ってやらないと、彼らは永遠にただそこに浮いて止まったままなのです。つまりは、彼らが何故浮かんでいるのか、この後どうなるのかを想像してストーリーを組み立てるのは、観る側の役割だとして、もはや画家の手を離れ、全て我々に委ねられてしまっているのですね。

 しかし、どんな絵にも「どうして?」と考えさせ、観る者をその場に立ち止まらせる「力」が有るわけではありません。引き留める力、絵の中に引きずり込む魅力を、画家は作品の中に宿らせなくてはならないのです。有元とフォロンの絵には、それが間違いなく在る。そう思っているから、僕は彼らの絵を観るのが好きなのです。

 有元とフォロンは、作品に語らせ過ぎないと云う点で「表現の匙加減」がすごく近いのかも知れませんね。そんな味わいこそが、二人の芸術を、どこか似た共通するイメージを持つものとして、観る僕らに感じさているのかもしれません。

 以上、随分曖昧で抽象的な個人観でしかありませんから、これを以て結論としてしまうのは、とても申し訳ない話なのですが・・・(^^ゞ。


7.ルソーは偉大だから大きく描く

 フォロンは同じベルギー出身のマグリットには多大な影響を受けていて、まだ12歳だった子どもの頃に彼の展覧会に偶然迷い込んだのが、アーティストを目指すきっかけだったと自ら述べています。

 一方、有元とマグリット作品は直接的にはあまり関係は無さそうにも思えるのですが、僕には有元の描く「青い空と白い雲」に、なんとなくマグリットを思い出してしまう事があるのです。実際、有元の評伝である『早すぎた夕映』(米倉守著、青月社)の文中には、藝大時代の有元がマグリットを引用していた、と記されてもいます。

 さらにそのマグリットが敬愛していた画家に、アンリ・ルソーがいます。
 有元の描く空や雲は、このルソーに影響を受けていると思われる部分も少なくありません。

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◆左、有元利夫 / 『一人の夜』(1982)
◆右、アンリ・ルソー『カーニヴァルの夜』(1885)

 この2枚の類似性については、千足伸行氏も今回の展覧会図録に寄稿された『有元利夫に想う』 / 〈模倣から創造へ〉と云う文章中で例示されておられます。

※追記、2010年09月11日)
 2006年に世田谷美術館で開催された『アンリ・ルソー展』に、ルソーに影響を受けた現代日本人画家の作品として、有元のこの『一人の夜』は展示され、同展覧会にはルソーの『カーニヴァルの夜』も出品されていたそうです。


 有元芸術は、イタリア・ルネッサンスによって導かれたもの。彼はそれを隠していません。むしろ、まるで継承しているのだと宣言するかの様に、『私にとってのピエロ・デッラ・フランチェスカ』を制作し、自らの新境地を切り開きました。

 中世の絵描きは、今で云う芸術家とは随分と違う世界の“職人”でした。画家と云うよりも“画工”と呼ばれる方がしっくりと来る。彼らは親方の工房に弟子入りし、その画風を写し取る様に描けるまで修行して、それが認められて初めて注文品の一部に筆を入れることを許されたのです。要は、技術が完成するまでは個性は全く必要とされませんでした。一人前になってから、独立して初めて自分の色を出せる様になったのです。そんな徒弟制度が印象派のちょっと前の時代まで続いていたのですから、先人の絵を学び、技術を継承してゆくのは、決して「盗用」には当たらないのが絵画の世界の常識でした。フランスのアカデミーでなど、師匠や目標とする画家の絵そっくりに描ければ描けるほど、その技術が優秀だとされたのですから。

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◆ラファエッロ / 『ヌード習作』(1509年頃)  
 19世紀のフランス・新古典主義時代の“お手本”であり、サロンの評価の基準だったのはラファエッロでした。

 似せた作品の中に、どれだけ新たな個性、魂を込められるか。
 千足先生の書かれた言葉をそのまま使わせて頂けば、それさえ出来れば、それは「似て非なる芸術」と成りうるのです。


 有元がルソーをどう見ていたかについては、非常に興味深い文章が残されています。彼はルソーを単純に素朴派(=プリミティヴ)と云う括りで捉えることに、大きな違和感を感じていた様です。ルソーは確かに独学自己流のアマチュア画家でした。フランス芸術アカデミーによる正規の美術教育は一切受けていません。それ故、サロンではまるで拙い子どものいたずら書きのようだと嘲りを受け、全く相手にされなかったのです。しかし有元は「ルネッサンス初期の巨匠たちこそルソーの仲間であるのではないかとさえ思っていた」と最上級の賛辞を以て綴っています。

 要は、ルソーが正規教育を受けずに、絵画テクニック的に無知だったからと云う理由でプリミティヴに括られるのではなく、ルネッサンス以前の芸術の様に、遠近法や解剖学の知識などを必要とせずとも、素晴らしい芸術を成立させていた時代の巨匠たちと全く同じレベルの芸術家だと考え、その意味でプリミティヴと呼ばれるなら合点が行く、と思っていたわけなのです。

 日本経済新聞に掲載された「存在の不思議 女性像十選」の中にルソーの『S婦人の肖像』(※今回はweb上で参考に出来るようなカラー全体図が見つけられませんでした)を取り上げた有元はこんなふうに述べています。

 「その大きな黒いシルエットのフォルムの素晴らしさ、エリの三角形の白と顔の白の対比の美しさ、そしてバックの豊かな階調を持った赤 - など、こんな事がお人好しの素人のおじさんに出来るものですか。尊敬というよりも、恐ろしい厳しさといった方がいいようなものだ。  その肖像にはモデルにそっくりだとこちらに納得させるものがある。モデルを見たことはないけれども、これはぜったいに似ていると信じさせるものがあるのだ。その上で、その個人的容貌の下にある、人物としての普遍性までもが描いてあるのだ。ああ、すごい!!。」 ※『もうひとつの空 日記と素描』(有元利夫著、新潮社)より引用


 綺麗なものだから、重要なものだから、何よりも崇拝しているものだから大きく描く。

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◆ジオット / 『マエスタ(オンニッサンティの聖母)』(1310年頃) ウフィッツィ美術館蔵

 ルソーの場合、決して過去のプリミティヴ期の巨匠たちに倣ってそうしていたのではないかも知れません。偶々、そう描いてしまっただけなのかも知れないけど、有元にとってみれば、ルソーはやはり初期ルネッサンスや、それ以前のプリミティヴ期の巨匠たちと同一なのです。

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◆左、有元利夫 / 『雲を創る人』(1983)
◆右、アンリ・ルソー『自画像』(1890)

 これほどまでにルソーを評価していた有元。こんな彼の思いを知った上で、こうして彼らの作品を2つを並べてみると、俄然、有元の作品の人物もルソー同様に巨大化されて見えてきませんか(^^?。


 人づてに、有元さんが藝大で教鞭を執っていた頃の話を、少しだけ聞いたことがあります。何でも、彼の講義は学生たちに物凄い人気だったそうな。そりゃそうでしょう。だって、ルソー芸術のすごさを、これほど明快簡潔に説明してくれる人も、そうはいないですものね(^^。





参考書籍一覧 (前記事も含め)

・『もうひとつの空』-日記と素描 / 有元利夫 著 (新潮社)
・『花降る日』 / 有元利夫&容子 著 (新潮社)
・評伝 有元利夫 『早すぎた夕映』 / 米倉守 著 (青月社)
・展覧会図録 没後25年 有元利夫展 天空の音楽
・ウフィッツィ美術館 公認ガイド日本語版
・『イタリア 歴史の旅』 / 坂本鉄男 著 (朝日選書)
・『チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷』 / 塩野七生 著 (新潮文庫)



有元利夫に関連する過去記事 : 『谷中散歩#2~(有元利夫の生まれ育った町を行く』
(→ http://ilsale-diary.blog.so-net.ne.jp/2010-03-11



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TaekoLovesParis

そういえば、前編には、コメント欄がなかったんでしたね。
前編を読んだとき、書きたかったことがあったんだけど、忘れちゃって。

有元さんの絵が、フォロンに似てると言ってたのは、pistaさんでしたね。
確かに普通にいいなーと思える景色に、ちょっと異次元な人物やロボットが
はいりこんでも、違和感どころか、空想の世界にある温かみを感じさせますね。
シャガールとの違いで、<作品に語らせ過ぎない>と、おっしゃっているのに、
なるほど!と思いました。

偉大だからこそ大きく描く、そうですね!ジオットの聖母の絵の写真で、とっても納得です。ルソーは独学でも、感性と観察力の鋭い人だったからこそ、今なお評価、支持されているんでしょう。作品にある感性に有元さんは惹かれたんでしょうね。

前回書きたかったこと思い出しました。有元さんの絵では、前回掲出の「花吹」が好きです。少年の純粋さが表現され、花びらという幸せの種をまいている姿が
ピエロ・デラ・フランチェスカの「キリストの洗礼」の右端にいる洗礼を授ける人に重なります。フランチェスカの右端の人が、硬質なのに比して、有元さんの
少年は、有元流にアレンジされて、人懐っこい眼差しが温かい。でも、天使である金の輪をつけた厳かさが保たれていて、好きな作品です。
有元さんは、古典をわかりやすく翻訳して見せてくれる人だったんですね。
もっと、もっといろいろなものを見せてほしかったのに、残念です。
by TaekoLovesParis (2010-09-05 13:31) 

pistacci

いつもきちんとした裏打ちもなくコメントを書いてしまうのですが(猛省)、
きちんと証明してくださったなぁ、と、感動すら覚えています。
ぅん、そぅそぅ、そういうことだったのね、と、読みながら頷いていました。
あらためて、有元さんとフォロン、どちらもTaekoさんの書かれているように温かみがありますね。
絵画面ではなにも書ける知識がありませんが・・(^^;
前記事から、有元さんがリコーダーを演奏するきっかけとなったBEATLESの曲は、
たぶん、THE FOOL ON THE HILLではないかと思います。

by pistacci (2010-09-05 22:54) 

micky

絵には、いろんな意味がふくまれてるんですね。
指先が弥勒菩薩って、よく見て、は、そうだ、ってわかりました。
しかも、この人の体つきは、大仏さま体型。
展示されてた木彫の手の指は、OKサインでしたか?
有元利夫さんは、仏教に関心があったんですか?

フォロンのぴょんとはねてるポスターがかわいいです。
by micky (2010-09-06 21:19) 

Inatimy

『ガブリエル・デストレとその姉妹の一人』って、布を敷いた箱みたいなのに入ってるのが何だか不思議~・・・と思ってたら、その下の、有元利夫さんの絵も同じような感じですね~。 指先よりも、その点の方に注目しちゃいました。
『春』(1979)もこんなお風呂のような箱に入ってますよね。
他の画家さんとの絵の比較はとっても面白くって、興味深いです♪ 
by Inatimy (2010-09-08 23:14) 

chercher

大変興味深く拝読させていただきました(*^^*)
どの画家に影響をうけたのかなど、色々と知ると
見方も変わってきますね。
『どんな絵にも、「どうして?」と考えさせ、観る者をその場に立ち止まらせる「力」が有るわけではありません。引き留める力、絵の中に引きずり込む魅力を、画家は作品の中に宿らせなくてはならないのです』という文章に
「そっかぁ、そういうことだったんだ」とハッとしました。光の射し方が綺麗な印象派の絵が素直に好きですが、たまたま美術館で出会った印象派ではない一枚の絵に心が強く惹かれたことがありました。いつまでもその絵をずっと観ていたいし、力をもらえるような気がしました。そんな力が備わっている絵ってあるのですね(*^^*) 
yk2さんの記事を拝見していると色々なことを知ることが出来て嬉しいです♪
by chercher (2010-09-09 22:20) 

yk2

nice!&コメント頂きありがとうございます。
月に1、2度しかコメント欄付けないくせに、あまりに趣味色が強くて絡み辛そうな美術記事の時ばかりに限って・・・とは本人も重々自覚しており(苦笑)、コメントして下さった皆さまには無理矢理「お勉強」に付きあわせてしまっている様で、大変申し訳なく思っております。毎々ごめんなさい~(^^;。


◆taekoねーさん :

前回読んで頂いてから今回の第2回目まで随分と間が空きましたので、思ったコト忘れちゃうのも無理からぬ事かと・・・(^^ゞ。

>有元さんの絵が、フォロンに似てると言ってたのは、pistaさんでしたね

そーなんですよ。pistaさんは懐かしい東京電力のCMもかなり具体的に覚えていらしたので、ちゃんとフォロン像をイメージとして持って居られる。その上で有元作品を見て似てると感じられているのですから、「何か」が確実にそう思わせているわけで、僕も云われてみれば・・・と思って、探ってみたくなったのでした(^^。

実は、95年にBunkamuraで行われたフォロン展の図録(※僕は観てませんが)にフォロン本人のインタビューが載っているのを思い出して、つい先日読み直してみたのですが、彼が初めて観たマグリットについて「絵は本当になんでも出来る。謎を生み出すことさえ出来るんだ!と思った」と答えていて、ああ、フォロンはやっぱり「どうして?」とか、「なんだろう?」って、絵を見る我々に思わせたい画家だったんだなぁと、彼の言葉で再確認しました。絵で、鑑賞者とキャッチボールする、みたいなね。フォロンはそれを“開いている絵”と云っていて、誰でも、遠慮無く気軽に入って来てほしいと考えていたみたい。この辺りの感覚は、有元さんの本を読んでいると、二人はやっぱり似ていて、制作のスタンスに共通する意識が有ったんですね。つくづく、有元さんがずっと元気で居られたなら、是非一度フォロンと対談してみて欲しかったなぁなんて、思ってしまいました。お互いの事、どう思ったかなぁ、って(^^。

ルソーの大きく描く理由が、有元さんの明快な論理で初期ルネッサンスの巨匠たちと結びつけられているのは痛快だったでしょ?。ルソーのファンにだって、ルソーはヘタだから、無知だからこそ子どもが描いた様な無垢で純粋な魅力がある!だなんて云う人がいるけど、有元さんはそれを勘違い、或る程度計算して描いていたんだろう、って思ってるんですよね。稚拙=純粋、素朴は有元さんのコンセプトでもあったわけですから。

>有元さんは、古典をわかりやすく翻訳して見せてくれる人だったんですね

亡くならなければその次もあったわけで、僕はその古典翻訳から有元さんの絵がどう変わっていけただろうか、ってところが見てみたかったですねぇ。


◆pistaさん :

あんまりきちんと証明出来たとは自分では思えてないんですが、どうでしょう・・・(^^;。taekoさんへのコメントにも書きましたが、フォロンのインタビューと有元さんの残した文章で、制作に対するスタンスの共通項を箇条的に並べていくと、その点では両者が近い事が或る程度は証明出来そうなんですが、絵の具象的な部分で僕はなーんにも解決出来てないですから、ねぇ(^^ゞ。

『THE FOOL ON THE HILL』、教えて頂いて感謝です。僕はBeatles全然知らないので、助かりました。今はYOUTUBEですぐ楽曲確認出来るから良いですね。ポールのリコーダーは、正直云って上手くはない・・・ですね(笑)。
有元さんも、あれなら自分にも出来る!って思ったに違いない(笑)。


◆mickyさん :

ふふ、仏像の手はOKサインじゃなかったです(笑)。

有元さんは大学入学前にコンセプト・アートをかなり本格的に手掛けていたそうなんですが、そんな時に奈良や京都で見た仏教美術に心打たれて、古典の美を再確認したそうです。それは、アカデミックな既成美術を否定するような新しい美術を模索しつつ、そのアカデミーの頂点にある藝大に入りたいと云う自分の矛盾点に、スッと光を差してくれた様なものだったみたいですよ。古いものの美しさを知らずして、無から新しい創造など有り得ない、って。

で、その後イタリアへ行って、シエナでみた宗教画が、まるで仏画と同じ感覚だなぁと気付くのですね。これには、日本人の自分にとって、スッと入っていける感覚が有ると。
by yk2 (2010-09-11 07:51) 

yk2

◆Inatimyさん :

はぁ~、つくづくいなちゃんはいろいろニッチな部分に気付く人なんですね~(良い意味で感心)。
著作権の問題があるので図録を平面スキャン出来なかったので、僕がここで載せている仏画ポーズの『朝の雲』は、作品の全体的なイメージがかなり見えにくい状況になってると思うんだけど、そこに気付きましたか。
ガブリエル姉妹が箱の様な物に入っているのは、湯浴みでもしてるのかな?、でも布で全体が覆われているのは何でだろう?と僕も疑問に思っていたのですが、それについて解説してくれているものは、僕の持ってる美術書には残念ながらないんだなぁ。謎なのですよ。有元さんはそれも引用してるわけですが、きっと、自分の作品を見る人にも、これは何だろう?、と同じように思わせたかったのかも。謎を共有しようよ、って。違うかな?(笑)。


◆chercherさん :

僕は絵だけじゃなくって、音楽なんかでもそうなんですが、自分の好きなアーティストは何を見て、何を聴いてきたから、こんなにも僕が好きな作品を創れたんだろう・・・ってトコロにすごく興味を持ってしまうんですね(^^;。で、遡って影響を調べていくと、芋づる式にそっちも面白くなって・・・って具合でそれがループしてるんです(笑)。

絵の力って云うのは、単純にきれいなものが描かれている、色が美しいから、ってだけでは計れないもの。今の気持ちに響かなくても、もっと色々な事を知って、初めて絵が訴えたいものに気付く時もありますよね。僕らが受けてきた美術の学校教育はどうも印象派にばかり傾いていて、だから印象派がみんな身近に感じるんでしょうけど、それ以外にも素敵な絵、面白い絵、力を持った絵はたくさん存在するんですよね。そもそも、印象派と呼ばれた画家たちだって、終生同じ手法で死ぬまで描き通した人ばかりじゃないですしね(^^;。
chercherさんが、その印象派以外の画家の作品に惹かれたのには、自己分析して行けば、きっと何か明確な理由があるはずだと思います。それについて、その場でそんなに深く考えなかったとしても、ある時、全然別の絵を見ている時に、ああ、そうだったのか!ってハッと気付いたりして。僕はそんな瞬間が楽しくて、絵を観に行くのが好きなのです(^^。
by yk2 (2010-09-11 09:01) 

mami

さすが深い考察ですね~。
これはぜひとも「観る前に」読んでおきたかったです。
ルソーの絵と有元の絵が似ている感じは漠然としていましたが、なるほど、そういうことなんですね!
by mami (2010-09-13 00:29) 

yk2

◆mamiさん :

ご訪問&コメントありがとうございます。
すみません、ご覧になる前じゃなくって・・・。な~んの役にも立ちませんね(苦笑)。
ただまあ、有元さんのルソー観は観た後で知ってもなかなか興味深いと思いますので・・・(^^ゞ。
by yk2 (2010-09-14 22:32) 

pistacci

あらためて、ふっと感じたことを書いちゃって、それをきっかけにyk2さんにあれこれ考えさせちゃったわ、と、反省。
じつはフォロンと有元さんの間にはyk2さんがいるのじゃないか、と、思ってます。
いろいろ考察を勉強させていただいているおかげで、私、展覧会に行っても以前と見方が変わってきましたよ。

ここを読み直して、仏像一体でなく、手だけが展示されていたのが不思議に思ったことを思い出しました。画家なら部分でなく全体で求めると思ったのです。
なるほど、手が重要だったということなのですね。
もう一回、行きたかったな。


by pistacci (2010-09-15 00:40) 

yk2

◆pistaさん :

えへへ、フォロンと有元さんの間には僕が、ですか~?(^^。
まぁ、確かにpistaさんにとっては両者は僕がご紹介した様な形でしたからねぇ。(笑)。

「考察」だなんて、絵を難しく考えるつもりは僕は少しもないんですよ~(^^;。

ただ、以前はサラッと観て、ただ単に「好きだなぁ」で終わらせていたものに、blogを始めてからは、これを好きだと思ったのはどうしてだろう?、って後から考えるようになったのは確かかも。
だって、これだけ美術ネタを取り上げていて、いつも「これが好き、あれが好き」とか、ただ単に「展覧会行って来ました~」って書き散らかすだけのレベルのお話しか書けないんじゃ、小学生の絵日記や感想文とそう変わらないですものね(苦笑)。

仏像の手は、有元さんにとっては挑戦すべき相手だったんだと思います。手や足を省くことで、登場人物の行動を曖昧にして来たものを敢えて描くわけですから、有元さんの登場人物たちも、これから先はもっと多くを語る様に次第に変化していく課程に在ったのかもしれません。

>もう一回、行きたかったな。

きっと、来年の2月、また小川美術館で観られるんじゃないかなと、僕は勝手に期待しちゃってますよ(^^。

by yk2 (2010-09-16 23:58) 

hatsu

yk2さんのお話、引き込まれますね~。
すごくおもしろくて、何度も読んじゃいました。
“似て非なる芸術”、
“新たな個性や魂を込める”というお話、
とっても感動しました^^
by hatsu (2010-09-27 06:05) 

yk2

hatsuさん、こんばんは。
コメントありがとうございます。お返事遅くてごめんなさい。

改めて、妹さんご結婚おめでとうございました。
ご本人じゃなくって、送るお姉ちゃんがマリッジ・ブルーって、おもしろくって(笑)。hatsuさんならでは、ですね(^^。

上の本文中に「ロンド」って絵を紹介していますが、この絵で浮かんでいるのがhatsuさんみたい(^^。

と云うのは、嬉しくって天にも昇る気持ちで舞い上がっているのに、どこかブルーで引っかかる。だから、そんなに高くまで上り切らないでふと止まってしまって、お祝いの輪舞曲で踊るみんなをちょっと上から見てるの。「あれ・・・、ワタシったら、今嬉しいのよね?」って具合に。どう?、こんな絵の見方(笑)。
by yk2 (2010-10-06 23:04) 

柳絮

たまたま辿り着いたのですが、有元さんの絵にたくさん接し、様々な資料にも当たられた方にして初めて可能となる晴らしい考証です。前編後編をじっくり読ませていただきました。有難う御座いました。
by 柳絮 (2015-05-26 16:21) 

yk2

柳絮さま:

ご訪問頂きありがとうございます。
有元さんのお話でコメント頂き、嬉しいです(^^。

私がこの話をblogに書いてから既に5年が経過しようとしていますが、今年は高崎や酒田で有元さんの展覧会『天空の音楽』が巡回開催されているそうで、未だにこの記事にアクセスして下さる方がいらして嬉しく思っています。

当初に思ったとおりに、有元さんをまだあまり知らない方がネットで検索をされて、偶然に私のblogを見て下さって、それが多少なりとも更に有元さんの絵に興味を持たれるきっかけになれていたら好いなと、今でも思っています。今読み返してみますと拙い内容で、お恥ずかしいのですが(^^;。

by yk2 (2015-05-27 18:26) 

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