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吉田博とアンリ・リヴィエールと同時代の日本の版画作家たち~その1 [ART]

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 損保ジャパン日本興亜美術館で現在開催中の『生誕140年 吉田博展-山と水の風景-』 (→ http://www.sjnk-museum.org/program/current/4778.html )の前期を観て、率直に云って大変に驚かされた。これまでの僕は版画家としての吉田博(1876~1950)は知っていた。でも、それ以外は全く知らなかった。吉田博と云えば版画の人なのだと勝手に思い込んでいた。ところが吉田は、版画家である以前に明治の洋画画壇に於いて黒田清輝(1866~1924)と並び立つ第一人者であり、版画は彼の画業のあくまで「一側面」でしかなかったのだ、と思い知らされたから。




 そんなことで、今回は吉田博について展覧会で観たあれこれを記しておこうと思いこのブログを書き始めたわけなのだけれど、よくよく考えてみれば、まだこれから115点中の66作品も入れ替わると云う後期展示も観に行くつもりなわけで、どうせ吉田博の画業について語るならそれからでも遅くない。

 それじゃあ今回は趣向を変えて、僕が彼を知るきっかけとなったフランスの浮世絵師アンリ・リヴィエールと、2009年秋に葉山で観たその回顧展(参考→ http://ilsale-diary.blog.so-net.ne.jp/2009-10-11_HenriRiviere )でも紹介されていた同時代の日本人版画作家たちの作品をここに並べて、吉田やリヴィエールとの関わりに着目しながら紹介してみたいと思う。



 先ずはリヴィエールの作品から見ていこう。因みに今回ここで掲載する作品の全ては、前述の2009年に開催されたアンリ・リヴィエール展の出展作品からだ。出来るだけその中で、紹介されている日本人作家たちの作品と共通するモチーフ、近いテーマのリヴィエール作品を選んだつもりではある。

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◆『自然の様相』-日没-(1898) / アンリ・リヴィエール フランス国立図書館蔵 リトグラフ

 吉田博の代表作である『瀬戸内海集-帆船-』(今頁のトップ画像)に合わせ、リヴィエールの作品も帆船が描かれているものからこれを選んだ。博の帆船が展覧会図録の表紙に使われている様に、同じくリヴィエールの展覧会図録もこの帆船が表紙に選ばれている。


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◆『美し国ブルターニュ』-トレブルの舫い船-(1902) / アンリ・リヴィエール 県立ブルターニュ博物館蔵 リトグラフ

 アンリ・リヴィエールは1864年03月11日、フランス・パリのモンマルトルにて生まれた。父はチュール布やレース生地の卸販売を行う商人だった。

 10歳のころ、彼はほぼ同世代生まれである後の新印象派(点描主義)を代表する画家の一人となるポール・シニャック(1863~1935)※参照(→ http://ilsale-diary.blog.so-net.ne.jp/2007-04-Orsay-5 )と知り合い、二人は共に1880年から歴史画家エミール・バンのアトリエに通い始める。リヴィエールが正式な絵画教育を受けたのはこのアトリエでのごく短い期間のみであった。 

 1882年、リヴィエールは、その前年ロシュアール大通り84番地にロドルフ・サリがオープンさせたキャバレー、シャ・ノワールで刊行していた週刊新聞シャ・ノワールの編集者となる。そこでの彼の役割は、挿絵の製作や印刷の管理など。ここで彼は『黒猫』のポスター作家として著名な存在となるテオフィル・アレクサンドル・スタンラン(1859~1923)らと知り合い、シャ・ノワールに集う芸術家たちとの交流を通じて版画と出会うきっかけを掴むこととなる。スタンランらとの出会いはリヴィエールを先ずは銅版画の世界へと導き、この頃(1882年)より試みとしてパリの風景を銅版に刻み始めるのだ。


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◆『ブルターニュ風景』-唐箕を使う女たち(ロギヴィ)-(1891、1914) / アンリ・リヴィエール フランス国立図書館蔵 木版

 1885年、リヴィエールを初めてのブルターニュへと向かわせたのはシニャックの助言に因るものだった。この旅から戻り作成した数枚のエッチングが、その後の彼の代表作品となるブルターニュ・シリーズの源泉となった。

 当時のブルターニュは、産業革命で目覚ましい変貌を遂げるヨーロッパ社会に於いては伝統的かつ素朴な人々の生活が残る場所。それを言い換えれば、例えば都会人たるパリジャンにとってのブルターニュは、まるで文明に侵されていない未開の地の如しであった。ジャポニザンの芸術家たちが次々この地へと向かい、古風な郷土衣装に身を包んだ人々の暮らしをこぞって描いたのは、ブルターニュの素朴を、浮世絵から想像するしかない遙か彼方の摩訶不思議な未開の地への憧れ=日本に対するプリミティヴィズムに重ねたからだとも云われている。

 リヴィエールが日本の版画に惹かれ、その影響を創作に反映させ始めたのは1889年頃のこと。最初の一枚はエッフェル塔の工事現場を木版に刻んだもの。そこから1891年、ブルターニュに滞在中にロギヴィ(Loguivy)を発見する。松の植わったその海岸の景色は、彼にしてみればまるで浮世絵の中の日本そのものであった。


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◆『海、波の研究』-波の後の泡(トレブル)-(1892) / アンリ・リヴィエール フランス国立図書館蔵 木版

 明らかな日本芸術、それも、ここでは北斎のおそらくは『神奈川沖浪裏』からの啓発を隠すことなく表明したリヴィエール。

 シャ・ノワールは開業した1881年から97年まで都合16年営業するのだが、その間のパリは1900年開催の万博などの影響もあり、まさにジャポニスム全盛期を迎えていた。リヴィエールもその洗礼を受け、日本美術へと接近する。その課程で彼は日本人美術商・林忠正(1853~1906)の寄稿した『パリ・イリュストレ-日本特集号-』(1896)、Maison de l' Art Nouveau(アールヌーヴォの店)の店主・サミュエル(ジークフリート)・ビング(1838~1905)が刊行した『芸術の日本』を目にして、やがて彼等と交友を結ぶ様になる。


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◆『美し国ブルターニュ』-ランメリュスでの月の明かり-(1900) / アンリ・リヴィエール フランス国立図書館蔵 リトグラフ

 特に林忠正との出会いはリヴィエールの芸術活動にあまりにも大きい影響を与えた。彼はラッキーだった。ビングの店や『芸術の日本』の誌面で日本の美術工芸品を単に眺めるに留まらず、当時のヨーロッパに於いては林以外唯一無二だった日本人の日本美術専門家を友人に迎えられ、それがどの様な芸術なのか、それとも単なる大衆向けの日用品なのか、日本人の視点や知識を林から、それも流暢なるフランス語で直に吸収出来たのだから。

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◆『日本美術友の会 夕食招待状-』(1907) / アンリ・リヴィエール フランス国立図書館蔵 リトグラフ
 
 大作家たるエドモン・ド・ゴンクール(1822~1896)なども頻繁に出入りする林の店で日本の品々に囲まれて過ごす時間は彼にとって至福の一時だった。リヴィエールは、当時のパリの日本美術上級コレクターたちと林、ビングらがその設立の中心となった「日本美術友の会」(1892年3月発足)にも参加し、その夕食会招待状(写真上)なども製作。林もこの”パリの絵師”に大きな信頼を寄せ、1903年に自身の東京邸宅用に壁画制作を依頼している。


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◆『時の魔術』-最後の陽光-(1902) / アンリ・リヴィエール 県立ブルターニュ博物館蔵 リトグラフ

 掛け軸の様に縦に長いスタイルの画面であることから我々日本人にとっては装飾芸術的であり、その点でピエール・ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ(1824~1898)やモーリス・ドニ(1870~1943)を思い出させることもある。


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◆『美し国ブルターニュ』-海の霧-(1915) / アンリ・リヴィエール フランス国立図書館蔵 リトグラフ

 一方こちらはジェームズ・マクニール・ホイッスラー(1834~1903)の作品と同様のテイストを感じさせる1枚。吉田博も一時その作風に傾倒していたそうで、それを理由としてこの頁に加えておく。


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◆『自然の様相』-入り江-(1897) / アンリ・リヴィエール フランス国立図書館蔵 リトグラフ

 『自然の様相』は12色刷りリトグラフの16枚シリーズで、当初は1897~98年にかけて12枚、その後1908年に4枚が追加され1000部が刊行された。


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◆『自然の様相』-山-(1897) / アンリ・リヴィエール フランス国立図書館蔵 リトグラフ

 パリを描いた『エッフェル塔三十六景』のシリーズは別として、圧倒的に海(そのほとんどがブルターニュ)の光景を描いた作品が多いリヴィエールだが、山の画家と呼ばれた吉田博との比較でこの絵もここに選んでおく。


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 ところで、アメリカで水彩画を売って資金を得た後にパリにも上陸した吉田博は、同時代を生きたアンリ・リヴィエールと接点は有ったのだろうか?。もし、彼等がパリで出会うとしたら、その機会は1900年のパリ万博が考えられる。そして、その媒介となり得ただろう存在が林忠正なのだ。

 ここから少し、アンリ・リヴィエールからも吉田博からも離れて、その林忠正についてのお話を。

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◆林 忠正 ※この写真は、林が日本帰国後に手紙と共にパリのリヴィエールに宛て送ったもの。

 林は元々が1878年に開催されたパリ万博に起立工商会社(きりゅうこうしょうがいしゃ)の通訳として採用され渡仏した。その当時彼はまだ東京大学に籍を置くの学生であったが、中退してその職務に臨んだ。同社はそもそも、日本が国家として参加した1873年のウィーン万国博覧会の終了後に現地にて展示品を売却処分する目的で設立された半官半民の商社で、その後は各国で開催される万国博覧会に向けての出展作品の企画製造(※殖産興業としての美術工芸品生産奨励についての例としては「東京錦窯」をご参照あれ→http://ilsale-diary.blog.so-net.ne.jp/2008-05-31 )から、出品委託の引受け、その他現代で云うところのコーディネイト業務まで全般を行い、博覧会には欠かせない会社であった。

 パリ万博での通訳として会場を訪れる多くのジャポニザンたちと接した。その中には雑誌『ガゼット・デ・ボザール』の編集長で後に『日本美術』を執筆することとなるルイ・ゴンス(1841~1926)との重要な出会いも含まれた。博覧会終了後もパリに残った林は、ゴンスの日本美術研究、執筆を大いに手助けし、その仕事を通じて自らもその分野への造詣を深めてゆく。

 1882年に起立工商会社を辞し、翌83年4月に三井物産のパリ支店社員となり、6月に開催された龍池会(※後の日本美術協会)主催の日本美術縦覧会に協力するも、フランスでのその評価はすこぶる低調に終わる。三井が社の方針を変えてパリでの美術工芸品部門を縮小した為、その年末に退職。84年に美術商としてパリのシテ・ドートヴィル7番地に店を構え、元起立工商会社の副社長だった若井兼三郎との共同経営を経て89年に再び独立、「林商会」を設立する。

 林の商哲学は当時の他の日本人商人たちとは大きく違っていた。彼は美術品の売買を金儲けの単なる手段とは考えなかった。そもそも、美術商でありながら重要な価値を持つと彼が判断したならば、その品は手元に置いて売ることはしなかった。一度手放してしまったら、もう再び取り戻すことは出来ないだろう。彼は後々の日本の美術界にとってもそれらの品が貴重となることを予見していた。日本の美術工芸品の真なる価値を欧米人に理解させるため、顧客を大いに選びもした。金を幾ら沢山積まれたとしても、日本美術のなんたるかその価値を理解しない者には絶対に売らない。林のそうした気質は一過性のブームに踊る俗物を遠ざけ、真に日本美術を愛好するパリの知識人やブルジョワたちの信頼と尊敬を獲得するに至ったのだ。中でもゴンクールは林の知識は勿論のこと、彼の持つ知性的な物言いや態度にも惹かれ、自身の創作の頼みとした。フランス文学上未だ誰も書き得なかったテーマの第一人者になることをひたすら望み、林からのレクチャーや資料の翻訳など絶大なる助力を基に『青楼の画家、歌麿』(1891)と『北斎』(1896)を上梓した。

 当時の林の人脈や人望はパリに滞在する日本人としては抜きんでていた。ゴンクールなど文化人はもとより、ナポレオン3世の従妹であるフランス皇女・マチルドやアメリカの大富豪ハヴェマイヤーとも取引するなど面識があった。また、来仏してくる日本の要人たちにも頼りとされた。伊藤博文や西園寺公望、有栖川宮などとも1900年に開催予定となっていたパリ万博の準備を通じて意見を交換するなどの交流があり、そうした経緯から、無官の商人としては全く異例の万国博覧会事務官長に抜擢されることとなる。そう。この1900年開催のパリ万博に於ける日本国出展チームの監督が、林忠正その人だったのである。ただ、当時のパリ事情など知り得ない日本の展覧会事務局の役人達にとって、林の抜擢は全く理解出来ない寝耳に水の様な人事であったのも事実で、この事が大きな嫉妬を呼び、後々の謂われのない誹謗中傷に林が晒される原因ともなっていく。


 話の序でに、林の人脈や彼の周辺のフランス人達がどの様に彼と接していたかが伺える面白いエピソードが残されているので一つご紹介しておこう。

 ジョルジュ・クレマンソー(1841-1929)はフランス第三共和政に於いて二度も首相を務め「猛虎」とも呼ばれた当時の大政治家だが、美術、特に印象派ファンにはモネの擁護者としても有名で、オランジュリー美術館の部屋一面に『睡蓮』が飾られる事となった旨のエピソードでもよく知られるところだろう。また、国立西洋美術館に常設展示されているカリエールの描いた肖像画(→ http://ilsale-diary.blog.so-net.ne.jp/2007-09-09)でこの人物を知る人も居られることだろう。このクレマンソーも実は林の店によく出入りしていた「常連」の内の一人だった。 

 或る時、西園寺公望(1849-1940)が林の店に遊びに来ていると、ふらりクレマンソーが現れた。西園寺とクレマンソーはソルボンヌ大学で共に政治学者のエミール・アコラスなどに学んだ仲だ。クレマンソーはごく初期から林の店に出入りする常連ではあったが、林にとって好い客であったかと云えば、単純にはそうとも云えない存在だったらしい。この日もクレマンソーは新しい荷が林の店に届いた事をどこからともなく聞き付けて、他の顧客達に先んじて「開けて見せろ」と林に云った。ところが林はその内に開けるつもりだと、この「猛虎」のお達しをやり過ごして澄ましている。クレマンソーがじれて「早く見せてくれ!」と懇願しても「あなたは見せても買わないからだめだ」とにべもない。これにはクレマンソーが折れて「今日は買うよ!、ほら1000フランも持って来てるんだから」。これでようやく林は荷の封を解いてくれたそうな。強烈な闘志で「猛虎」と呼ばれ、舌鋒、機知ともに鋭いこの大政治家が林の前ではうまく手玉に取られている様子を、西園寺はゲラゲラと笑いながら眺めていたと云う。(要旨:『林忠正』/木々康子著:ミネルヴァ書房より)。


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 さすがにちょっと長くなってしまっているので、ここで一旦区切ります(^^ゞ。その2(→ http://ilsale-diary.blog.so-net.ne.jp/2017-08-04)へ続く

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