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吉田博とアンリ・リヴィエールと同時代の日本の版画作家たち~その2 [ART]

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◆『ブルターニュ風景』-トレブルのいわし漁船の出帆-(1898-1914) / アンリ・リヴィエール フランス国立図書館蔵 木版

「吉田博とアンリ・リヴィエールと同時代の日本の版画作家たち~その1」(→ http://ilsale-diary.blog.so-net.ne.jp/2017-08-02)より、続き。

 日本人の洋画・版画家である吉田博とパリの浮世絵師アンリ・リヴィエール。この二人が実際に出会っていたと云う記録は何も残されていないと云う。だが、彼等はともに1900(明治33)年にパリで開催された万国博覧会に作品を出品していて、その展示の模様を自らの目で確認しようと吉田もパリを訪れている。日本に憧れつつも、終生その地を踏むことはなかったパリ在住のリヴィエールと吉田とが、物理的に最も接近したのがこの第5回目のパリ万博だった。

 
 そのパリ万博に於いて、リヴィエールは『サント=アンヌ=ラ=パリュ教会の贖罪祭』と『トレブルのイワシ漁船の出帆』(※本頁トップ画像)を出品し、「版画およびリトグラフ部門」で金メダルを受賞する。

 北斎の「富嶽三十六景」へのオマージュ、1888年に始まる「エッフェル塔三十六景」の発表や、印象派を擁護支援した画商・デュラン・リュエルの画廊で行われた「画家・版画家協会」への第一回展会からの連続参加などに依り徐々に版画家としてその名を画壇に認められる様になっていたリヴィエールではあったが、パリ万博での金メダルはその評価を確固たるものとしたのだ。


 一方の吉田博も負けてはいない。水彩の大作『高山流水』を出品し、褒状を受けている。

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◆『日光・荒沢』(1897-99) / 吉田博 静岡県立美術館蔵 水彩 紙

 残念ながら、その『高山流水』は現在は所在不明となっているらしく、どの様な作品であったのかは解らない。代わりに、当時の吉田博の水彩の画風の参考として頂きたく、今回の吉田博展の出展作品中から、こちらも「水」に因んだこの水彩画を本頁に掲載した。




 このパリ万博では初めて日本の現代洋画が紹介され、黒田清輝や久米桂一郎ら白馬会からの官費派遣組も作品を出した。博は黒田が中心となった白馬会の躍進により旧派とのレッテルを貼られ脇へと追いやられた不同舎に学んだ身。白馬会の連中には面白くない思いも幾度となくさせられたことだろう。自費で渡ったアメリカでは展覧会の開催にこぎつけ、水彩画を売り、その実績を誇りに自力でパリへ乗り込んできた博にとって、国家から優遇される黒田たちの存在は反骨心の炎を燃やす対象だったようだ。黒田はこの時『智・感・情』にて博が受けた褒状より上位である銀賞を受賞したのだが、博はその時見た日本人画家の洋画についてこう日記に書き残している。「皆、平べただ。おかしな色だ。まるでだめだ。殊に黒田、久米始め駄目だ」。実際、このパリ万博に於いての現代日本洋画部門の現地評価は散々なものだった。


 ところで、黒田清輝はそもそも子爵家の跡取りとして法律家と成るべくパリへと留学し、その際にパリ在住の日本人達に画才を見込まれて画家に転向した、と云うエピソードをご存じだろうか。実は、その画才を認めて転向を奨めたのは二人の画家(山本芳翠と藤雅三)と他ならぬ林忠正だった。黒田を彼の師匠となるラファエル・コランに紹介(1885年頃)したのも林だ。1878年と、フランスでさえ未だ印象派に対し懐疑的だった時期からマネやドガを始めとする印象派の画家たちと交流していた林は、確実に先見の明を持っていた。日本人に於ける印象派の第一発見者と呼んでも差し支えが無かった。厳然たる官展=アカデミーの画家ではなく、印象派とアカデミーの折衷的表現を模索していたコランに黒田を引き合わせた事が引き金となって、日本の美術界は大きな大きな転換点を迎える事となるのだから。


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◆『読書』(1892) / 黒田 清輝 東京国立博物館蔵 油彩

 また、黒田や久米ら日本からの留学生は林から金銭的な援助を受けることも珍しくなく、子爵家出身の黒田でさえ幾度か林に絵を買って貰い窮地をしのいでいたと云う。在フランス時代の代表作でサロンに初入選した一枚である『読書』も林が購入を申し出た。結局のところ、この絵に関しては黒田は日本での展示を望んで、林には日本への運搬を引き受けて貰っている。


 画家・黒田誕生の第一功労者とも云える近しい間柄。こう林忠正を紹介してしまうと、黒田・白馬会と対立する旧不同舎出身での太平洋画会の主要メンバーだった吉田博と林は相容れない存在の様にも思えてしまう。しかし、不同舎を主宰した小山正太郎やその盟友である浅井忠が中心となって結成した明治美術会(1889)に対し、林はごく初期から賛助会員となってその活動を後押ししているのだ。そればかりか、黒田と久米は林に勧められて帰国当初は明治美術会に一旦参加さえもしている。一方の雄、浅井忠はと云えば、パリ万博期間に合わせ官費留学中で、この間ずっと彼と行動を共にしていたのは黒田の愛弟子と云われる和田英作。この二人も現地にて林とよく交流していた記録が残されている。林は別段「新派」だけが贔屓なわけでなく、ニュートラルな立場だと考えて貰えば良いだろう。


 吉田博はそのパリ万博期間中に浅井忠を訪問していて、やはり同時期にパリ公演のため当地に滞在していた旧知の川上音二郎一座から舞台美術を依頼されるも、自分の師匠(小山)の盟友たる大先輩の浅井に押しつけてしまい気の毒だったなどとも日記に記している。

 果たしてパリ博覧会の期間中、例えば浅井忠を媒介として吉田博は林忠正と出会ってはいなかったろうか。林を媒介として、彼の友人であったアンリ・リヴィエールとは出会わなかっただろうか。対面までは至らなくとも、版画部門で金牌を受けたリヴィエールの作品を万博会場にて目にはしなかったのだろうか。


 少し、ここで浅井忠の話にも触れておこう。彼はフランスで日本の芸術が消化され、そのまま模倣や真似をされる段階はとうに過ぎて、あくまで抽出されたエッセンスが採用され新たな芸術(=アール・ヌーヴォー)として再構築されている事に驚きを隠せなかったと云う。日本で過去のものとして軽んじられている伝統がここでは見事に活かされている。それは光琳派であり、浮世絵であり、染色の型紙にまで及んでいる。何と云う発想、着眼点!。その時の衝撃が、帰国後の浅井を応用美術や工芸デザインへと向かわせるのだ。そこで浅井が目にしたものの中に、北斎の『富岳三十六景』をエッフェル塔へと置き換えたリヴィエールの版画も間違いなく含まれていただろう。

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◆浅井忠 / 『大原女』 

 帰国後の浅井は東京美術学校の教授職を自ら辞して(※1)京都へ移り、大津絵(→ http://ilsale-diary.blog.so-net.ne.jp/2015-05-17)など戯れ絵や日本に伝わる古来からの意匠を活かした工業デザインを模索する。この大原女は単純に考えれば日本画によく有りがちなモティーフなれど、浅井の留学経験などから鑑みれば、ポンタヴァン派、ナビ派の画家らが好んだブルターニュのイメージを日本の伝統的な風俗へとイメージ変換(ブルトンヌから大原女へ)させたものだとも考えられる。

※1) 実は、吉田博が黒田清輝と「やり合った」と云う「噂」の現場は、浅井忠の帰朝歓迎会でのことなのかもしれない。東京美術学校に戻った浅井が割り当てられた第二教授室が上野動物園の獣の声さえ聞こえる程にすぐ隣の「まるで物置の様な隅部屋」だったりして、浅井本人よりも周囲が「冷遇だ!」といきり立ったそうな。全ては黒田率いる新派の企み、嫌がらせだと。吉田は旧派を代表して黒田に不満をぶつけ、それが一騒動になったらしい。よりによって、無事の帰国を祝う歓迎会のその日に(苦笑)。浅井はそんな状況に嫌気が差して京都へ去ったのだとも云われている。
 それでも吉田がその時「殴った」かどうかまでは、僕の読んだ本には書かれていませんので念のため^^ゞ(ソース:『浅井忠白書』P154、更にその元ソースは『没後90年記念 浅井忠展図録』の年譜だそうです)



★ ★


 林忠正は黒田清輝が日本へ帰国する際、後進の教育の為にとアンリ・リヴィエールの版画を持ち帰らせたらしい。その時黒田はミュシャのアールヌーヴォー・ポスターなどを同時に持ち帰っているが、黒田とリヴィエールの間にはそれ程の交流が有ったとの記録もなく、おそらくは林が持たせたのだろうと考えられている様だ。

 ここから、そのリヴィエールの版画を見て影響を受けた、もしくは同時代に木版の新たな可能性を模索していた日本人作家の作品を並べてみたい。


<杉浦 非水>
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◆『三越 7巻7号表紙』(1917) / 杉浦 非水(すぎうら・ひすい:1876~1965) 東京国立近代美術館 雑誌

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◆『三越 8巻8号表紙』(1918) / 杉浦 非水 東京国立近代美術館 雑誌

 杉浦非水は初め日本画を学ぶも黒田清輝の書生となり、上述の黒田が持ち帰ったアール・ヌーヴォーのポスター類に感銘を受けて図案に進んだ人物である。彼は自身の手記に、1901年に黒田が持ち帰ったポスターが白馬会の展覧会に出され、そのお陰で「偉観」を得たと記している。同時に日本美術の影響を受けたアンリ・リヴィエールの石版画が独特の新しいスタイルを構築していることを賞賛し、これらの新しい芸術が黒田の持ち帰った「お土産」に因って日本美術界にもたらされたのだと言及している。




<富本 憲吉>
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◆『雲』(1911) / 富本 憲吉(とみもと けんきち:1886~1963) 個人蔵 木版

 富本憲吉はロンドンに留学中、ヴィクトリア&アルバート美術館に通い詰める内アンリ・リヴィエールの版画と出会っている。それを見て、自分も木版を試してみようと製作されたのが、この『雲』である。また、富本はリヴィエールが波斯(ペルシャ)陶器に詳しいとも言及していて、陶器の図案なども手がけていた彼がリヴィエール監修の『イスラム美術の陶磁』(カラー図版100頁に及ぶ豪華撰集だった)にも目を通していただろうことが判っている。




<南 薫造>
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◆『畑を打つ』(1911) / 南薫造(みなみ・くんぞう:1883~1950) 町田市立国際版画美術館寄託 木版

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◆『風景』(1911) / 南薫造  町田市立国際版画美術館寄託 木版

 南薫蔵も白馬会の主要メンバーであり、東京美術学校の教授も務めた。上で紹介した富本憲吉と同様にロンドンでリヴィエールの版画と出会う。瀬戸内海に面した広島県賀茂郡内海町出身であり、ここでの2点を見る限り、リヴィエールの描くブルターニュに故郷の海を重ね合わせて創作のヒントとした様にも思える。




<石井 柏亭>
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◆『日本風景版画 第一集北陸之部 1. 能登和倉温泉』 / 石井 柏亭(いしい・はくてい:1882~1958) 千葉市美術館 木版

 石井柏亭は東京の生まれ。父は日本画家であり、幼少期より絵に親しむ。15歳で浅井忠の門下となり油彩を学び、中村不折にも師事する。故に夏目漱石とも親しい(※浅井と不折は漱石作品の挿絵作家でもあった)。1907年に山本鼎とともに美術雑誌『方寸』を創刊するなどして近代創作版画運動の先駆者的存在だった。




<山本 鼎>
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◆『ブルトンヌ』(1920) / 山本鼎(やまもと・かなえ:1882~1946) 千葉市美術館 木版

 上で触れた石井柏亭と美術雑誌『方寸』を発表する山本鼎だが、柏亭の妹に恋をし石井家に拒絶された為自暴自棄になるも、親友の小杉未醒になだめられて失意のままにパリに遊学する。遊学と云っても裕福でない実家に多額の借金をさせての渡仏で、エコール・ド・ボザールでエッチングを学ぶもフランスでの暮らし向きは赤貧を極め、ストーブで暖を取るのもままならなかった程だと云う。1913年、姪とのスキャンダルで日本から逃れて来た島崎藤村と親しく交流するようになる。藤村が鼎を訪問した際、やはりストーブにくべる薪がなくキャンバスの枠木を外して火を起こしたと云う、まるでオペラの『ラ・ボエム』のボヘミアン生活を実地で行ったかの様なエピソードも残る。同年、小杉未醒とブルターニュに赴き同地方を作品の題材とする。因みに後に妻となるのは北原白秋の妹いゑ、洋画家の村山槐多は従兄弟。

 鼎はその課程全てを自ら行う自刻自摺の創作版画家であり、刷り師を使う吉田博らの作品に対しては「創作」に対する意見の相違が埋められず、帝展などでは審査を巡り対立することも有った。




<伊藤 深水>
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◆『近江八景 矢橋』 / 伊藤深水(いとう・しんすい:1898~1972) 千葉市美術館 木版


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◆『近江八景 唐崎の松』(1917) / 伊藤深水 千葉市美術館 木版

 鏑木清方門下。浮世絵の系譜を活かし渡辺版画店からて美人画シリーズを刊行して人気を博した。




<川瀬 巴水>
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◆『旅みやげ 第1集 金沢ながれのくるわ』(1920) / 川瀬巴水(かわせ・はすい:1883~195) 山口県立萩美術館浦上記念館 木版


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◆『旅みやげ 第1集 松島かつら島』(1919) / 川瀬巴水(山口県立萩美術館浦上記念館 木版


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◆『暮れ行く古川堤』(191920) / 川瀬巴水 山口県立萩美術館浦上記念館 木版

 伊藤深水と同じく鏑木清方門下。初めは家業を継ぐ為に絵を断念した故に本格的に絵を志した年齢が遅く、一度は断られた清方に入門を許されたのは27歳の時。その師匠とは僅か5歳しか歳が離れていなかった。清方に弟子入りする前には岡田三郎助に師事し洋画も学んだが、日本画の夢は絶ちきれず。しかし浮世絵にも伸び悩みを感じ、35歳の時に同門の伊藤深水の『近江八景』に影響され版画に転向。広重や小林清親らを研究するなどして情緒溢れる風景版画に活路を見出し、新版画の第一人者と呼ばれるに至った。




<漆原 木虫>
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◆『ストーンヘンジ・昼』(1913-39) / 漆原 木虫(うるしばら・もくちゅう:1886~1963) 個人蔵 木版


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◆『ストーンヘンジ・夜』(1913-39) / 漆原 木虫 個人蔵 木版

 漆原木虫こと由次郎は東京生まれの木版摺師。1910年にロンドンで開催された日英博覧会に木版画のデモンストレーションのため刷り師として招聘され渡英すると、そのままイギリスに残り大英博物館の嘱託として明治42年から昭和9年まで勤務。木版で同館の所蔵品を、または同時代の画家の作品を版画に起こして複製する業務を行う傍ら日本の木版技術を英国人作家に指導する等した。この間、フランク・ブラングィンの日本風版画などで刷り師も務めた他、自らも自刻自摺の作品を発表。帰国して日本で開かれた木虫の展覧会では松方幸次郎が「彼の名は海外でより大きく評価されている」旨の序文を添えている。
 



<吉田 博>
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◆『牧場の午後』(1921) / 吉田 博

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◆『東京拾二題 隅田川』(1926) / 吉田 博


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◆『東京拾二題 隅田川 夕』(1926) / 吉田 博


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◆『瀬戸内海集 帆船 朝』(1926) / 吉田 博


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◆『瀬戸内海集 帆船 午後』(1926) / 吉田 博

 最後に、ようやく(苦笑)吉田博の作品群を。

 よく調べもせずに、パリ万博で浅井忠と会っているくらいなら、ほぼ間違いなく林忠正とも何かしらの接点が有っただろう等と、勝手な思い込みだけでこのブログを書き始めてしまったものの、手持ちの林について書かれた書物類には吉田博の名は一切記述無し。林と繋がれていればリヴィエールとも・・・と考えてのことだったのに、結果は見事に空振りしてしまった(^^;。タイトルに『吉田博と・・・』なんて名前まで出しているものの、その内容は殆どリヴィエールと林に比重が取られ、実態としては8年越しにやっと書き終えたアンリ・リヴィエール展の展覧会記事に他ならないと云う有様で・・・(苦笑)。

 繰り返すが、吉田と直接的なアンリ・リヴィエールとの関係は、今回僕が調べた範囲では何も出て来なかった。しかし、偶然の一致だとしても彼等両者の作風やモティーフの近似、時間経過による光の変化などへの取り組みは共通点を感じさせて面白い。その点で例えば、吉田はモネを「ずるい」と云う言葉まで使って好意的に見ており、モネの連作として名高い『ルーアン大聖堂』などにヒントを得ているのかも知れないし、それは勿論リヴィエールも見知っていたことだろう。また、モネを彼等の間に置くとすれば、モネの望むところ作品と浮世絵の現物交換に応じてあげたり、ジヴェルニーの庭にと菖蒲や牡丹をはるばる日本から取り寄せて贈るなど、非常に親しく交流が有った林忠正の存在がここでも浮上する。

 吉田博に関しては僕は未だ知らない事だらけだ。この先、もっと色々と興味深いエピソードを知りたいものだ。もしも、海外滞在時の彼の日記が読めたら面白そうなんだけど、ね(^^。




◆参考書籍一覧
・生誕140年 吉田博展 / 2016-2017(展覧会図録)
・フランスの浮世絵師 アンリ・リヴィエール展 / 2009(展覧会図録)
・『林忠正』 / 木々康子著:ミネルヴァ書房
・『林忠正宛書簡・資料集』 / 木々康子編、髙頭麻子訳:信山社
・『林忠正 ジャポニスムと文化交流』 / 林忠正シンポジウム実行委員会編:ブリュケ
・『夢見た日本 エドモン・ド・ゴンクールと林忠正』:小山ブリジット著:平凡社
・『浅井忠白書』 / 馬渕礼子著:短歌研究社


 拙blogと致しましては大変久し振りに(^^ゞ、今回コメント欄を開けてあります。ご感想、ご意見はもちろん、もしも吉田博やリヴィエール、林忠正に関して(もちろん、彼等の関係性やその他の事でも!)御教授頂けることなどございましたら、お気軽にどうぞお書き込み下さいませ。



タグ:版画
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TaekoLovesParis

大きくて綺麗な絵入りで、吉田博&リヴィエールと同時代の作家たちを紹介してくださって、興味深く読みました。吉田博はリヴィエールに会ったのだろうか?という謎解きのような形ですすんでいくので、どうなんだろうとひきつけられました。 そして黒田清輝と「やりあった」といういきさつ、芸大が上野動物園の隣だからこその話で笑えます。

浅井忠は、「アールヌーヴォーは日本文化をエッセンスとして取り入れ上手に自分たちのものにしている、真似する段階は通り越している」と気付いたんですね。だから、デザインの分野にも取り組んだのかしら。

杉浦非水、南 薫蔵、漆原 木虫、知らなかったけど、絵はどこかで見た懐かしい感じがします。

林忠正はパリで日本の美術界のために大活躍だったんですね。黒田清輝に日本へのお土産として「リヴィエール版画」を託したり、黒田の絵の運搬費の負担、「日本美術の会」の開催など 、日仏の橋渡し役でしたね。
yk2さん、資料が少ない中、これだけいろいろ調べるのは、とっても大変だったことでしょう。吉田博、アンリ・リヴィエールがもっと注目されるようになると、資料もいろいろ出てくるかもしれませんね。

by TaekoLovesParis (2017-08-16 01:53) 

yk2

taekoねーさん、コメント頂きありがとうございます。

ちゃんとお返事させて頂く前に、以前いなちゃんが紹介して下さったオランダの美術館のサイトをご紹介しておきます。

http://www.nihon-no-hanga.nl/

ここのコレクションに今回掲載したほとんどの版画作家の作品がありますよ。もう少し新しい世代の川上澄生や畦地梅太郎の作品もあって面白いです。ご覧になってみて!。
by yk2 (2017-08-16 11:17) 

yk2

◆taekoねーさん:

おはようございます。
改めましてコメントありがとうございます。

資料たくさんで大変・・・って、林忠正関連の本は今回の記事を書く為にわざわざ最近読んだ、ってわけじゃないので大丈夫。もしそうなら1冊1冊かなり厚いのでめっちゃ大変ですが(笑)。本の巻末に人物名の一覧があって、登場ページが検索出来るんですよ(^^。

リヴィエールと吉田博が会った記録が無い、ってのも2009年のリヴィエール展の図録にその旨記述があって、専門家が調べた上でそう書いているんだから・・・と、そこは最初から当てにしてなかったんです。その代わりに、リヴィエールに近く浅井忠ともパリで交流の有った、なおかつ1900年パリ万博の事務官長と云う現地の最高責任官みたいなポジションですから、林忠正関連の書籍を当たれば必ず吉田の名前が1度や2度は・・・残念ながら、有りませんでしたね(苦笑)。

ご存じだと思いますが、浅井忠はグレーに滞在していましたよね。で、その時のフランス滞在を「愚劣日記」(※愚劣と書いてグレと読ませる^^;)として残しています。それが基に本としてまとめられているんですが今は古本でしか手に入らない上、Amazonでも5000円くらいの値段。それはちょっとやだなぁ~(^^;で買えなくて、まだ読めていないんですが、そこに吉田のことは記述が無いのかしらん?と今は気になってます。国立新美術館や横浜美術館の図書室になら蔵書がで持ってるかもしれないので、機会が有ったら調べてみたいなと思ってます。

そうそう、以下おまけ情報ですが、今回色々調べてる過程で出てきたんですが、本文中にも触れている川上音二郎のパリ公演ですが、彼等を招聘したのがロイ・フラーだったんですって。僕は見逃してしまいましたが、フラーはtaekoねーさん最近映画でご覧になったでしょう?。意外な日本との繋がりで「へ~~~」でした。是非ねーさんのブログで映画のレビュー書いて下さいな( ̄人 ̄)。
by yk2 (2017-08-19 07:56) 

sakiyama_kiichirou

どちらかといえば山岳史から吉田博のファンになりました。吉田博と林忠正に興味があります。吉田博とリヴィエールの関係の考察をたいへん興味深く読みました。ここ3か月で読んだブログ記事ではもっとも刺激的でした。ただ私の直感は、吉田はリヴィエールの影響をまったく受けていないのではないか、です。
図録によると、1900年パリ万博のとき吉田博は日記に「皆、平べただ……」と書いているそうですが、この下手ななかに吉田本人もふくまれるか否か。これが焦点です。私は、図録の学芸員の指摘に疑念をいだいています。私もいまだに吉田の日記を読むことができないので、yk2さんにはこのあたりをもっと調べて、ぜひとも書いてほしいです。
吉田博のエピソードはいろいろあるのでしょうが、まだまだ認知度が低いのは油彩「精華」にからむものです。吉田博作品の中で最も異色の作品が油彩「精華」であることは、どんな学芸員でもうなづくでしょう。これは彼が人生の記録として残した1点だと私は思います。それと図版でもいいからいつか「高山流水」を見てみたいです。
by sakiyama_kiichirou (2017-08-27 13:35) 

yk2

◆sakiyama_kiichirouさま:

ご訪問&コメント頂きありがとうございます。
ここでは葉山で観たリヴィエール展に出展されていた吉田作品を採り上げましたので海がテーマの作品ばかりですが、今回の吉田博展では初めて目にする山の作品が素晴らしくて心を奪われました。山岳史から、と云う事はsakiyamaさんは登山をなされるものと拝察致しますが、実際に山に行かれる、愛される方にも支持される描写なのですね(^^。

「皆、平べただ……」の記述ですが、僕は図録に書いてある吉田の日記を文字通りに読む以外、そこにはない前後の記載やニュアンスが何も分からないものですから、何とも云えないのですが、もしもパリで浅井忠と万博の日本洋画について意見交換をしていたなら、浅井が感じた本場フランスとの絶望的なまでのレベル差について、吉田も聞かされていたと思うのです。銀牌を受けた黒田の『智・感・情』にしても、悪い絵では無いと思いますが描写はどこか硬く、ぎこちなく思えてしまうのは僕だけではないでしょう。残念ながら、水彩がアメリカで評価された吉田も、芸術先進の地パリとアメリカのレベル差を痛感させられたのでは?と、僕は推測しています。

『精華』に関しましては、すみません、僕は何も存じ上げませんので滅多な事は申せません(^^ゞ。この絵の存在自体、今回の展覧会で初めて知りました。

その上で敢えて、乱暴ですが見た印象と想像だけでお話させて頂くとしたら、僕の持った第一印象は「(中村)不折みたいな絵だな」でした。それは写実主義の歴史画風に思えたから、なんだと思います。

太平洋画会や関西美術院で浅井近くにいた鹿子木孟郎は、黒田が師事したコランが純粋たるアカデミーの画家でないことから、白馬会のスタイルをフランス絵画の本流ではないと批判したそうですが、もしも、太平洋画会の画家たちがアカデミー絵画にとって「(故事古典や文学、宗教画を含む)歴史画」こそが最高峰たる画題である、と云うフランスのサロン基準を日本にも持ち込もうとしていたなら、吉田博が『精華』でそれ(=歴史画風、但しテーマは寓意性を感じさせるものの創作にて)に挑戦してみたのでは?、なんて具合に考えても面白いのではないでしょうか。

印象派の面々はサロンの舞台では残念ながら敗者ですから、歴史画を描く「立場」にさえ上がれなかったわけで(描きたいとも思わなかったかもしれませんけど・・・笑)、太平洋画会の画家として歴史画的な絵画を極める事で、黒田・白馬会陣営に対し彼等が学んだ印象派は所詮は邪道なんだとダメージを与えたい、我らが本道なのだとマウンティングしたい(?)って思惑も有ったのではないか・・・。

って、全ては吉田が黒田の向こうを張って、ってイメージでものを考え過ぎですかね(笑)。

by yk2 (2017-08-30 00:47) 

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