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8月に咲いた花菖蒲と、井伏鱒二の『かきつばた』 [本]

2020_06_11_朝戸開01.JPG

 こんなことがあるものかと驚いてしまった。8月ももう中旬に差し掛かったお盆の時期にハナショウブが咲くだなんて。




 このハナショウブは”朝戸開(アサトビラキ)”と云う品種で、僕が手に入れた最初のハナショウブだ。この花一株を園芸店で購入したのは2017年のことだった。一年の間大切に世話をしてあげたとしても、次の春に花を咲かせてくれるかくれないか、全く以てつれなく気紛れな独逸菖蒲(ドイツアヤメ=ジャーマンアイリス)と違って、このハナショウブって花は毎年必ず咲いてくれるとても有り難い、愛すべきアヤメ、イリスだ。

 記念すべきこの最初の朝戸開は、店頭で出会った時には既に蕾が付いていた状態のポット苗で購入した。さすがに今付いている蕾は間違いなく花を咲かせてくれるだろうけど、来年以降は上手く育てられずに枯らしてしまうかもしれない。だけどとにかく1度チャレンジしてみたい。ずっと何年も以前から、ハナショウブが家で育てられたら、と憧れに近いような感情を抱いていた。けれども、この花は水田や湿地など水辺が生息域。常に水に浸かった状態でないと生きていけないのでは?と勝手に思い込んでいた。そんな花だから手間が掛かって当たり前。例えばビオトープ的な環境を揃えてあげるくらいじゃないと無理なんじゃないかと二の足を踏んでいたのだ。それだとボウフラ対策として、メダカのお世話までが洩れなく付いて来ちゃうからねぇ(^^;。

 でも、いざ手に入れてみると、実際はそこまで手間の掛かる花でもなかったんだ。ビオトープ環境が無くても大丈夫だったし(笑)。蕾の付いた苗をポッドで購入してから1年の流れは以下の様な具合。


・普通に素焼きの植木鉢に植え替えてやる。サイズは6号鉢(直径18cm)であまり深くない方が良いと聞いたので高さも同じくらい。土は赤玉土(小粒)で元肥は不要。アルカリ性の土を好まない。水遣りはたっぷりとあげて、鉢をトレイややや深めの受け皿に載せ水が溜まる様、いわゆる腰水って状態にしてあげる。

・その水にボウフラがわかない様に1~2日で古い水が入れ替わるように気を付ける。

・花後、花茎は早々に根元から切り落として種を作らない様にしてあげる(種を作ると株が弱ってしまうため)。

・夏の間は葉が綠色の内は水を与え続けて、浸かってる水の温度が高くなり過ぎない様直射日光が当たり続けない様な場所に置く。ジャーマンアイリスには肥料はほとんど必要ないとされているけど、ハナショウブにはお礼肥に化学肥料を少しあげる。

・9~10月の頃はゆっくり効くタイプの化成肥料や油糟をあげる。この時期に施肥することで、来年の花への栄養を蓄える。

・以降は冬に向かい地上部の葉が枯れ始めるも、乾燥のし過ぎに気を配る程度。冬の休眠期はある程度の凍結や乾燥にも強く、ほとんど放置でOK(^^ゞ。

・株分けが必要なら普通は花後に行う。植え替えは1月下旬から2月に行うのも可能だそう。僕は株分け時にプラ鉢も使用してしまっているけれど、素焼き鉢でなくとも特に問題は起きていない。ただ、腰水にするので素焼き鉢の方が水の浸透性は間違いなく良いのでしょうけど。

・春の水遣りは芽が活動し始める3月の声を聞いて気温がぬくみ初めてからでOK。普段はカラカラにならないように気をつけてやって、あげるときは受け皿に水が染み出すくらいにたっぷりと。




2018_06_23_五月晴01.JPG

 それ程神経質にならずともハナショウブは育てられる!。そう気付いたらもう安心(^^。翌2018年には長井紅千両(ナガイベニセンリョウ)、九重の桜(ココノエノサクラ)、清少納言(セイショウナゴン)、さらに五月晴(サツキバレ ※写真 ↑上)と買い足し品種を増やして、どれも枯れることなく毎年花を咲かせてくれて今日に至っている。


2021_05_27_九重の桜01.JPG

 2021年、一番に初めに咲いてくれたハナショウブは”九重の桜”で、開花日は5月27日だった。

 過去にUPしたエントリや写真の撮影記録を辿れば、我が家のハナショウブたちは大抵5月末から6月中旬頃までに開花してくれている。そうして遅くとも6月下旬までには全ての花が終わるのがここ数年の常だ。


2021_07_14_朝戸開01.JPG

 ところが今年は、何の気紛れか7月も中旬となった14日にこの光景(^^。

2021_07_14_朝戸開02.JPG

 僕は7月初旬の生まれなんだけど、これまで自分の誕生日を過ぎてまでハナショウブが咲いてくれていた事は過去一度も無くって、思いがけないプレゼントを貰った様で嬉しかったなぁ。今年はジャーマンアイリスの花着きが不調で少なかった所為もあって、余計にこの「7月のハナショウブ」が有り難かった[わーい(嬉しい顔)]


 しかし、今年に関しては異例中の異例。未だこれで終わりじゃなかったんだ。

2021_08_11_朝戸開01.JPG

 8月11日のこと。 

 数日前から花茎が伸び上がって来て、蕾も大きくなって、やがて青紫に色付いて。
 また花が咲いてくれそうな予兆は有ったわけだけど、8月になってからの開花だなんて、これまでは過去一度も無かったこと。このところ続いた灼ける様な猛暑にやられて、花咲く前に朽ちてしまうことだって当然の様に考えられた。でも、結果はご覧のとおり。無事に花開いた。

 さすがにこれはちょっと異常にも思える出来事で、正直、僕も嬉しいよりも戸惑って仕舞った。8月を迎えてなおハナショウブが咲くだなんて・・・。


★ ★


 小説家・井伏鱒二の作品に『かきつばた』と云う短編があるのをご存じだろうか。

 終戦間近の8月の広島県を舞台に、爆心地の広島市中から約40里(※1)離れた福山市近郊に滞在した主人公が、原爆投下当日の前後、そして終戦後の様子を綴っているのだが、そこにカキツバタの花が登場する。主人公が疎開する福山の知人宅の2階から臨む池の端に、8月だというのにたった一輪だけ、カキツバタの花が咲いているのを見つける。主人公はカキツバタが本来いつの頃に花開く植物なのかを知っている。故にそれは「狂い咲き」なのだと、物語は始まる。
※1、40里はおよそ160km。井伏はそう書いているが実際には福山市と広島市街は100km程度の距離だそうで、それは東京から熱海くらいに相当する)


 井伏鱒二と云えば、広島への原爆投下が題材の『黒い雨』を代表作に持つ作家なわけだが、テーマが近そうに思えて、それと本作は少々趣が異なるものだ。主人公は広島市内で直接原爆に遭ったわけではない。原爆と云う物の存在自体、未だ知る由も無い段階なのだ。ひと山隔てた、少しだけ離れた場所にいた人々が、その前後をどう暮らしていたのか、米軍が落とした得体の知れない強力な新兵器の噂と、甚大な被害と、以降人々を恐怖させた謎の病気=放射線被ばくについてなど、物語と云うより、これは当時作家がつけていた日記なのでは?とさえ思えてしまう程に、淡々とした語り口で綴られている。こんなふうに云ってはいけないのかもしれないが、物語に少しもドラマ性を感じないくらいに。
※2、実際、作家は終戦を疎開先である生まれ故郷・福山市加茂町で迎えている。

 市井の民のごく有り触れた生活の描写は、戦争という非常時の中であってもどこか長閑で日常を感じさせ、昭和20年の切迫した東京などとはまた違った当時の地方都市の様子が垣間見られる。そうは云っても、福山とて米軍からの空爆予告があって、政府からは緊急に疎開せよとの命令が出されている。人々は数日中にこの場所を離れなくてはならない。その様な危険な状況下なのに、主人公は、見納めになるかもしれないからと、福山の街を気の赴くままに歩いている。暢気にも、馴染みの旅館の庭に在って以前から中々の物だと眼を着けていた伊部焼きの水甕をこの機に手に入れられはしないか等と思案したりもする。しかし、この同時刻にはエノラ・ゲイは広島に飛来していた。そうして人類史上初めて、原子力爆弾が対人戦兵器として実戦に使用・投下されるのだ。その翌日には続けて福山市も爆撃を受け、街は戦火に包まれた。多くの人が犠牲となった。

 毎日戦争で当たり前の様に人が亡くなってゆく。若者は兵士として国外の戦地で落命し、その遺族には紙っぺら1枚の戦死通知が届くだけ。本土で空襲を受けても、その悲惨さには大差は無い。爆風にちぎられ、業火で焼かれた遺体は最早誰のものだかも判断がつかない。そう云えば最近見掛けなくなったあの人は、果たして死んでしまったのか、それともどこかで生きているのだろうか、そんな事さえ誰にも分からなくなる。死の危険が現実のものとして、繰り返し毎日の様に襲って来る。井伏の描く主人公は、死と隣り合わせの日常に暮らす内、まるで感覚を麻痺させてしまったかの様に、起きた出来事を平静に語る。これを狂気の世界と云わずして何が狂気なものか。

 物語は最後に再び、カキツバタが咲いた8月の池の畔へと戻る。その狂い咲いた一輪の傍に、若い女性の水死体が浮かんでいた。その死に事件性はなく、娘は空襲時に逃げ惑う内、足を滑らせて池に落ちたのだろうと警察に拠って死因が推定される。二十歳ほどのその若い娘は、働き先の広島の工場で少し精神をおかしくしてからあの空爆(=原爆)に遭い、翌日、福山に連れ戻されて来たその日にまたもや続けて空襲に遭った様らしいのだと。身につまされるゾッとする様な恐ろしい出来事が、大して珍しい事でもないようにサラッと語られるのが、何ともまた、遣り切れないではないか。


 この作品を読んだ当初、僕には若い娘の不憫な死にカキツバタを組み合わせた作家の意図がまるで理解出来なかった。むしろ、愛するアヤメの一種であるところのカキツバタが不吉な花として添え物にされた様で、それを不快にさえ感じた。こんな事にカキツバタを持ち出してくれるなと。

 そうして、どうしてかくも文学者ってヤツは「狂女」を作品に登場させたがるのだろうかと、以前からも謎として感じていた事を改めて不思議に思った。これに関して、何かヒントになる書き物が見つかればとネットで探索を試みるも、僕の疑問に上手く答えてくれる様な検索結果には結局辿り着けなかった。

 それでも考えてみた。景色を想像してみた。若い娘が気を病んでおかしくなり、水に浮かぶ様子を。その傍らには本来咲く時期ではないのにも拘わらず、狂い咲きした、カキツバタの花。


 ふと、それで思い出した絵が1枚ある。
 ジョン・エヴァレット・ミレイの『オフィーリア』だ。色とりどりに摘んだ愛らしい花を手に、水にゆったりたゆたいながら川を流され絶命してゆく、美しくも哀れな若い娘の姿。

John Everett Millais_Ophelia.jpg

 この小説のストーリーにハムレット的なドラマの要素は全くない。それでも作家は、福山の池に浮かんだ娘の哀れな最期の境遇と、戦争が蝕んだ狂気の日常を、オフィーリアの悲劇だけを切り取って、重ねて描こうと思い立ったのではあるまいか。狂い咲いた8月のカキツバタが意味するものとは、第二次大戦下で狂わされてしまった当時の日本の社会や人心を象徴するのと同時に、オフィーリアが摘んだ色とりどりの花の代わりとして、たった一輪だけ捧げられた美しい弔い花だったのではあるまいか。そう思い描いてみると、作家がこの作品にカキツバタを用いた事への不快もどこかへ消えた。


★ ★ ★


 まぁ、全ては僕の勝手な想像、思い込みで語っているだけで、作家が『ハムレット』にどれほどの影響を受けているかだなんて全く知りもしないので、井伏鱒二にお詳しい方にハナで笑われるか、出鱈目だと怒られるかしてしまうかもしれませんが、その辺りは鷹揚にやり過ごして許して頂けたなら幸いです。

 ですが、今回ミレイのオフィーリアをまじまじと見直して気付いたのですが、オフィーリアの頭部左に水中から生える剣の様な形状の葉を持つ植物は、花こそ咲いていませんが、まさにアヤメ(イリス)系のそれだとは考えられないでしょうか?。西洋画に於いて、アヤメ(イリス)はマリアと共に描かれれば、それは純潔を顕すアトリビュートです。
#それならばどうしてここには花が描き込まれないのか!と突っ込まれると答えに窮しますが・・・(^^ゞ。

 『かきつばた』の主人公は本作の最終盤に、話に聞いたかそれとも誰かが書いた物語かも覚えていないとしながら、もう一人、カキツバタの咲く池の端で絶命していた若い娘の話を語ります。こちらの舞台は東京のどこかの場末に変わりますが、その娘は奉公に出ていたものの、父なし児(ててなしご)を孕んで戻され、若い指物師の兄と二人きりで暮らしていました。ですが、ある朝、福山の娘と同じ様に池に浮かんで亡くなっていました。妹がそこで死んでいるのを見つけた兄は水の中へと手をやり、遺体を引き上げることなく、その場で仰向けになって浮いている妹の膨らんでいるその腹の上に、彼女の両手を取って、行儀良く祈る様に重ねて乗せてやるのです。兄は厳かに、美しく敬虔に妹を旅立たせているかのよう。この行為って、何だかキリスト教的にも思えませんか?。そして、その周りには満開のカキツバタ=イリスが咲き誇っていた。

 もしも井伏鱒二が漱石のごとき豊富な西洋絵画の知識を持ち、イリスが純潔を暗示するものである事や、エヴァレット・ミレイの『オフィーリア』がどんな絵かを知っていたのなら・・・などと僕の勝手な空想はさらに膨らみます。あれこれ飛躍した後、やがて娘の妊娠は当人に罪の無い事情からもたらされたのだとしたら・・・とまで考えて、遂にはそれが「無原罪のマリア」に通ずるおハナシにまで思えて来てしまうのでした。


コメント(8) 

コメント 8

TaekoLovesParis

久しぶりの記事ですね。
いつもながらに写真がとっても綺麗ですね。特に最初の「朝戸開き」は日本画のような静謐な美しさ。青の持つ魅力が白い背景に際立っています。「五月晴れ」は、清楚で可愛いわ。

この時期の開花は、まさに狂い咲きですね。「かきつばた」という短編は知らなったです。
井伏鱒二は、広島県福山市加茂の出身で、伯父の所に嫁いで来た伯母が同郷です。この記事で書いてくださってる「かきつばた」のあらすじ、<市井の民のごく有り触れた生活の描写は、戦争という非常時の中であってもどこか長閑で日常を感じさせ>、を読みながら、伯母が、昭和20年の福山空襲の夜、「縁側にすわって、空を見ながら、『綺麗な花火ねー』って妹と見てたのよ」と度々話してくれたことに重なる!と思いました。翌日、福山の街が爆撃で全滅と聞き、あれは花火でなかったと驚いたそうです。

ミレイの絵「オフィーリア」のこと。
絵が見えたから、狂女→ オフィーリア → ミレイの絵 と言う流れは、何の不思議もなかったのですが、水辺にアヤメが描かれているのは、意図があったのですね。<アヤメ(イリス)はマリアと共に描かれれば、それは純潔を顕す> → yk2さんの考察、すごいです。

横たわるオフィーリアはマリアというよみですね。
井伏は初めは文学でなく日本画家を志したそうだから、絵への関心があったでしょうし、日本で人気があった評論家ラスキンの著作を当然知っていたでしょう。ラスキンは、ミレイ属するラファエル前派と親しかったのだし。
井伏がこの絵を知っていたから、カキツバタが咲く池に身投げをする女性の話も挿入されたというyk2さんの推察、おみごとです。花から本を引き寄せてくる、センスある紐づけですね。

by TaekoLovesParis (2021-08-17 01:14) 

yk2

ふふ、トップの朝戸開、すご~いまぐれ当たりだと自分でも思ってます(^^ゞ。ま、写真は兎も角、被写体である花が元よりただただ美しい、ってだけなので、褒められるべきはこの花そのものなんだと思います。ハナショウブってやっぱりキレイ(^^。

伯母上さま、福山市加茂のご出身なんですか!。では、まさにこの小説の舞台ですね。
空襲のお話で思ったんですが「ひと山離れた」って記述は広島市と福山じゃなくって、福山市街と加茂町の事だったのかなぁ?。意味を取り違えていたかも・・・と気付き今更焦ってます(苦笑)。でも、「綺麗な花火」のようだった、って叔母さまの体験談は『かきつばた』の主人公がどこか客観的なのに通じていますね。実際の空気感が想像出来てとても興味深いです。

オフィーリアのお話はねーさんがラスキンってヒントを下さったので、ちょっと調べてみたんですが漱石にかなり影響与えてるんですね。で、それではと「漱石の美術世界展」の時の図録を引っ張り出してみたら、「『草枕』とオフィーリア」って読み物が有るじゃないですか!。僕は『草枕』は中学生の頃に読んだつもりなんですが、全く内容が頭に入らなかったのか、全然覚えてなくって(汗)、展覧会の時のねーさんのブログ記事読んで、慌ててすぐにまた文庫本買い求めた・・・んですが、結局あれからずっと「積ん読」状態のままで。今度こそ読み直します(^^;。

何だかこの話はめっちゃ長くなりそう。コメントでは簡潔にまとまらないのでもう1記事くらい書けちゃいそうな気がしてきました(笑)。
by yk2 (2021-08-18 01:52) 

yk2

taekoねーさん、『ハムレット』(福田恆存訳)の文庫本引っ張り出してオフィーリアの最期の情景を読み直してみたんですが、このミレイが描いたシーンは、全て王妃ガートルード(ハムレットの母)の台詞に依って語られるんですね。それと似た表現が『かきつばた』の主人公が語る東京の方の娘の姿の描写に見つかりました。「誰かが云っていたかか書いていた話」の”誰か”は、シェイクスピアその人だった様です。井伏はまるで、これはオフィーリアなんだよ、と敢えて引用を示しているかの様にも思えて来ました。ここに書き足すとボリュームがかなり出すぎてしまう気がしているので、やっぱりもう1つ、別の記事で続きを書こうと思います(^^;
by yk2 (2021-08-19 08:21) 

TaekoLovesParis

yk2さん、どういう展開の記事になるのでしょう。楽しみです。
私の持っているハムレットも福田恆存訳なので、4幕7場、読み返してみました。いろいろな花の名前が出てきますね。「誰かが云っていたかか書いていた話」、書いていた話という辺りがシェークスピアに結び付きそうですね。以前、ロイヤル・シェークスピア・カンパニーの来日公演で「ハムレット」を見たのですが、美しいはずのセリフが全く聞き取れませんでした。それは余談で、井伏とオフィーリアの間に漱石が介在し、、さらに草枕も絡んでくるのかしら。
by TaekoLovesParis (2021-08-20 00:10) 

Inatimy

トップの朝戸開、本当に見事な写真で。背景が白というのも、光の当たり具合も、花の色もすごくキレイな一枚♪ 4枚目の背景に赤い花がある写真も好き。ベゴニアが咲いてるのかな。
”九重の桜”も素敵な姿。中央が高くなってるからジャーマンアイリスっぽい雰囲気もしますね。

ハムレットも井伏鱒二も読んだことがない私ですが、お話に参加したく^^;。
ミレイの『オフィーリア』に出てくる植物が何なのか、気になって調べていたら、"The Language of Ophelia's Flowers"という記事を見つけました。その方の解釈によると、アイリスはオフィーリアの膝あたりの紫と黄色の花で、紫のはEnglish Iris(Iris latifolia)イングリッシュ・アイリス、黄色のはYellow flag(Iris pseudacorus)いわゆるキショウブ。
そして、頭の左側にあるのはSedge。これが何の植物か検索してたら、カヤツリグサ科の植物だという他に、Acorus calamus アコルス・カラムスを指すみたいで。その和名が菖蒲でした。ハナショウブではない方の。この解釈はたくさんある中の一つだから、ミレイ自身が本当はどういうつもりで描いたのかはわかりませんが^^;。

オフィーリアの絵で私が気になるのは、左側の木の枝に止まってる鳥。ヨーロッパコマドリだとは思うんですが、オフィーリアのこと眼中にあるのかないのか、ただ自分の餌になるものを上から狙うためにそこにいるだけなのか、オフィーリアを客観視してる感じがすごいなと。

あ・・・夕飯の用意しないと〜。新たな別記事も楽しみにしてます^^。
by Inatimy (2021-08-22 00:13) 

yk2

コメントありがとうございます。
予告通り別記事を書くつもりで手を着けてはいますが、参考に読みたい本を取り寄せたりローレンス・オリヴィエの映画版『ハムレット』をDVDで観たりと、まだまだ資料あさり(?)の段階ですので先にお返事しちゃいますね(^^ゞ。

◆taekoねーさん:

展開としては、順当ならエヴァレット・ミレイの『オフィーリア』が日本の文学界や美術家たちにどう紹介され影響を及ぼしているかが主軸になるのでしょうけど、それよりも先ずシェイクスピア作品での「花」自体の扱われ方も気になるところ。ハムレットをちらっと読み直すと、シェイクスピアはオフィーリアが最初に登場する場面において、兄・レイアーティーズが妹と王子の恋の行方を心配して「早咲きのスミレの様に長続きはしない」だなんて台詞を云わせてる。そんなところから、オフィーリアの死の場面以外=ミレイの絵とは直接関係の無い場面にも登場する「花」の使われ方を探ってみたいな等と考えているのですが、それだと1冊丸々再読しないといけない上に、対する『かきつばた』の方でキーになる花はごくシンプルに1つだけだしなぁ~と(笑)。

加えて、そこに漱石が絡んで来ると話は多岐に渡ってしまって、いざ書き始めるとテーマが絞り込めなくって苦戦してます(^^;。英文学とキリスト教みたいなことから、『それから』の代助が白いユリを溺愛している風景を思い浮かべてみたり。井伏鱒二だって、漱石の影響を全く受けていない、それがゼロだなんて考えにくいですしねぇ。
それとは別に、井伏は早稲田に籍が在ったので、シェイクスピア作品の訳者である坪内逍遙からの影響なんてのも有り得るのかしらん?。その線で考えると演劇からの影響だって・・・なんて具合に連想(と云うか脱線?)は止まらず(苦笑)。はてさて、我ながらどうなることやらです、ね(^^;。


◆いなちみ~さま:

いなちゃん、taekoねーさんから半ば宿題みたいに無理矢理コメントする様誘導されちゃってかわいそうに(笑)。以前も漱石をあんまり読んだ事もないって云ってたくらいだから、井伏鱒二なんて更に読まないよね~。ねーさんの無茶振りに僕からごめんなさいです。エッフェル塔三十六景を課題にされるよりはよっぽどラクチンなんじゃない?、ですって。どうやら僕の普段の無茶振りの方がひどいと云う結論に・・・(笑)。

朝戸開のバックはお察しの通りベゴニアです。ほとんで手を掛けなくても勝手に増えて、咲いて、の花なので普段はあんまり気にも掛けていないのですが(かわいそう?^^ゞ)、この写真を撮った際には背景として効果的だったな~って、その名脇役ぶりに感心して見直しました(^^。

紹介してくれたサイト、拝見しました。さすがの調査能力!(拍手)。ミレイの『オフィーリア』の画面に描かれた花に関して、『ハムレット』の作中に直接記述が無い花や植物については、それが何の種類なのかは色々意見が分かれるところみたいですね。シェイクスピアが文章にしていない部分はミレイにしか解らない。特にスカート辺りに浮く花は描写がハッキリしないせいもあって見方が分かれるみたい。テート美術館展の図録中の解説だと、イングリッシュ・アイリスやキショウブは全く登場しないんだよ。で、僕が花は無いけどアイリスかな?と思った植物は、あのサイトだと菖蒲湯に使う方の「ショウブ」か。確かにそれならアヤメと葉の形状はすごくよく似てるよね。僕がこれをアヤメ=アイリス系か?と思った理由として、左端の方に花が終わって萎れきった様な枯れた花(オフィーリアの左手の高さくらいに位置する画面左端の茎ね)が1つだけ描かれているみたいに見えるからなんだよ。でも、あくまでそれは僕がそう思ってるだけ。現物の絵を目の前にして、じゃなくて、PCモニター上で最高に拡大出来うるサイズで見ているに過ぎないから、ねぇ(^^ゞ。
by yk2 (2021-08-27 07:08) 

Inatimy

毎年必ず咲いてくれる・・・yk2さんのその言葉に妙に心がワクワクし・・・
買ってしまいました^^;。久々に立ち寄ったガーデニングセンターで、ふと目について。
プレートにIris ensataってあったし、その花の写真もハナショウブ、間違いないと。
でも、名前が日本らしくなく。 オランダで品種改良されたものかも。
"Dinner Plate Tiramisu" 「ディナー・プレート・ティラミス」。
同じような名前で、チースケーキもあったんですが、ティラミスに。
でも、今の時期からだと冬に向かって地上部が枯れてしまうんですよね・・・
ちょっと寂しいし、来年咲いてくれるか不安いっぱい^^;。
by Inatimy (2021-08-30 06:33) 

yk2

わ、責任重大?(笑)。
取り敢えず、ウチではみんな毎年咲いてくれてるよ、って実績アリなので、多分大丈夫かと(^^;。
検索して、Iris ensataってノハナショウブのことなんだね、って判ったつもりでお次に”Tiramisu”で検索してみたら、全然違う見た目で吃驚(!)しました。ティラミスって云うより、中身が白い紅大根を千枚漬けふう?(^^;。ってコトは、むしろミルフィーユの方が名前的に正しいかもね(笑)。花弁の多い豪華なハイブリッドで、今から来年が楽しみだね~。

序でなのでコマドリのお話を。
コマドリはね、オフィーリアが心変わりを装ったハムレットにつれなくされ、父である宰相ポローニアスが急死したこと等が重なって、遂には精神をおかしくしてしまったシーンの台詞に登場するんだ。シェイクスピアはいかにもキリスト教的な聖書の言葉をよく引用しているんだけど、コマドリにもキリストの受難を象徴する意味があるそうです。そして、とてもよく唄う鳥だってことから、オフィーリアが自身になぞらえて「あたしの命」ってコマドリを呼ぶんだよ。だから、客観視してるよりも、彼女の分身として、その最期に寄り添っている感覚でミレイは描き込んでいるのかもしれませんね。
by yk2 (2021-09-01 22:07) 

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