メアリー・カサット (中編2/3) [ART]
◆『5時のお茶』 (1880) ボストン美術館所蔵
※前回のおはなしはこちらから→メアリー・カサット(前編1/3)
メアリー・カサットの画業を年代順に追って行くと、初めてドガから印象派に参加するよう誘われた1877年頃から81年に掛けて、彼女が目覚ましく精力的に創作活動を行い、素晴らしい作品の多くがこの時期に描かれている事に気付くだろう。しかし、翌1882年が近付くにつれ、その生活は様々な暗い影に覆われ始め、メアリーの絵筆は次第に遅々として進まなくなってしまう。
先ず、この年の印象派展にどの様な画家たちを新たに参加させるかで、印象派グループ内に激しい論争が起きた。それまでも似た様な出来事は幾度か有ったが、今回の対立は次第にエスカレートし、ついにはドガが展覧会への不参加を決めると、彼に近い立場に在ったカサットもそれに従う事となった。サロンへ作品を出展しない彼女にとって印象派展はフランスに於いて唯一最大の作品発表の場である。それを失うと云う事は、年間最大の絵を売る機会、収入を得る手立てのほぼ全てを無くしてしまうと云う事に他ならなかった。
折しもその頃、パリでは株式相場の大暴落が起き、現代美術の顧客たちの多くも手痛い打撃を受けていた。それまでの好況感は消え、社会にも暗い影が落ち始める。そんな時、アメリカではカサット家の出世頭として一家の希望の星であった長男のアレクサンダーがペンシルヴェニア鉄道を辞さねばならない立場に追い込まれてしまう。また時を同じくして、姉リディアにも異変が起きる。かねてより病弱だった姉の容態は悪化し、それは今までになく、明らかに深刻な方向へと進みつつあった。全てが一気に暗転したかの様な事態にひたすら狼狽する年老いた両親を抱え、メアリーには絵を描ける余裕などもはや無く、止めどなく押し寄せる不安の中で頼れるものも得られずに、ただ一人で耐えなければならなかった。
◆『タピストリーの織り機に向かうリディア』 (1881) ミシガン州、フリント・インスティテュート・オブ・アーツ
1882年11月、メアリーにとって一番のモデルであり、何より最愛の姉リディアがかねてよりのブライト症で他界する。すでにこの半年前から一切絵を描けなかったメアリーにとって、姉の死のショックは計り知れないものだった。悲しみに暮れ、その後も一年間、ほとんど創作意欲が湧かなかった。カサット一家はリディアの為に2年、喪に服した。この間母も病にかかり、看病するメアリー自身も体調を崩していた。描こうにも描けない時期だった。
結果として上図のリディアの肖像画は、彼女の最晩年を写したものとなった。穏やかな暖色に包まれた女性の何気ない日常の姿は、残された家族にとってはリディアの在りし日を偲ぶ遺影と云ってもよく、常々女性的な感傷を作品表現に持ち込むことを嫌ったカサットの作品に、期せずして儚さに満ちた情緒感を漂わせる結果となっている。
印象派は82年のゴタゴタ以来グループとしての方向性を失い、以後86年になるまで展覧会は一度も開かれなかった。その間、メンバー達は思い思いの方向へと画風を変化させて行く。例えばルノワールは70年代の『ムーラン・ド・ラ・ガレットの舞踏会』や『ぶらんこ』(共に1876)などに代表される、光と色彩から構成された空間描写、曖昧なフォルム-それこそが印象派的であった-を捨て、ダンス3部作に見られる様に輪郭線をきちんと描くアカデミックな古典的手法への回帰を試みている。
※参照→http://blog.so-net.ne.jp/ilsale-diary/Orsay-3
◆『浜辺で遊ぶ二人の子ども』 (1884) ワシントン、ナショナル・ギャラリー
その輪郭線に留意してご覧頂くと、前出の『タピストリーの織り機に向かうリディア』とこの『浜辺で遊ぶ二人の子ども』におけるカサットの画風の差異がはっきりお判り頂けると思う。例えば前者の肖像においては、窓から差す光に溶け込むかの様にリディアの手元はぼかされ、フォルムの詳細さは重要視されていなかった。
対して後者では画面の上部1/4に残された海の描写には印象派的な素早いタッチが使われているものの、主役の少女たちのフォルムははっきりとした輪郭線を用いて描かれている。カサットは決して印象派的な筆遣いを一度にきっぱりと捨ててしまったわけではないが、この種の画風の試行は常に行われていた。
またテーマにおいても同様に変化が必要だった。一番のモデルで在った姉は既に亡く、母も病気がちとあり、自分の家族や家庭の日常をそのまま題材にすることは最早難しい。加えて、経済的にも売りやすい題材の作品を描かなくてはならない。カサットとしては、必然的に新しいモデルやテーマに取り組んでゆく外はなかったのだ。そうして、この頃から徐々に子どもたちが題材に選ばれることが多くなってゆく。
◆『ティー・テーブルにつく婦人』 (1883-85) ニューヨーク、メトロポリタン美術館
経済的不振が続くこの頃、カサットが絵で生計を立てていく上で一番手っ取り早かったのは、客から直接注文を受けて、その人や家族の肖像画を描くことだった。だが、彼女はその仕事が終生決して好きにはなれなかった。人物を描くことを得意とし、実際、この『ティー・テーブルにつく婦人』の様に素晴らしい出来映えの肖像画も描き残していながらもだ。それはこの絵にまつわる、以下の様な出来事が大きな要因の1つだったのではないかと推測されている。
威風堂々としたこの肖像画のモデルはロバート・ムーア・リドゥル夫人と云い、、メアリーの母・キャサリンの従姉妹だ。メアリーはアメリカからやって来たこの親族の夫人から広東製青磁器の見事なティーセット一揃えを贈られて感激し、その返礼にリドゥル夫人の肖像画を描くことにした。
凛とした眼差しとしっかり結んだ口元、威厳を感じる黒一色の衣装はルネッサンス期の法王の肖像に倣って三角形の広がりを以て描かれ、豪華な陶製ティーセットとそれに添えられた夫人の手つきは優雅この上ない。この絵を見たドガは「抜群の出来だ!」と絶賛してくれた。カサットも相当の自信を持って、この絵をリドゥル夫人に差し出した。必ず気に入ってくれるものだと信じて・・・。
しかし、絵画にさして詳しくもないリドゥル夫人とその家族はこの絵を喜んではくれなかった。実際の夫人の顔と較べて、鼻が大きすぎると云うのがその理由だ。メアリーはこの素人達の寸評を決して受け入れはしなかった。ドガが素晴らしいと云ってくれた絵に、描かれた本人やその家族の感想を受け入れて修正を加える事など、彼女にとって有り得るはずもなかった。自信満々の出来だった肖像画を親族というごく自分に近い人間たちに否定され、カサットはひどく落胆し、そして傷ついた。
結局、この絵はリドゥル夫人に手渡されることもなく、かと云ってドガに素晴らしいとまで褒められた作品故に簡単に打ち捨てることも出来ずに、カサットの手元にずっとしまい込まれることになった。この絵を見ることすら嫌だと語り、30年近く忘れ去られたままだった。ところが、1914年にある友人に無理矢理諄かれ、渋々承知して展覧会に出品するとたちまち大評判となり、是非フランスの国家コレクションにと再三の打診を受けるに至った。しかし、この絵がどうしても好きになれなかったメアリーは決して首を縦には振らず、そのまま秘蔵し続け、晩年近くの1923年、ニューヨークのメトロポリタン美術館に自ら寄贈してやっと手放した。絵の完成から、およそ40年近くが経ってのことだった。カサットの画家としての高いプライドと、頑なな気質が垣間見られるエピソードだ。
◆『髪を整える少女』 (1886) ワシントン、ナショナル・ギャラリー
気の強いついでに、そんな気性が更に伺えるエピソードを持つ作品をもう1枚。
この絵はこんないきさつから描かれた。
ある時、カサットはドガの知人でもある著名な画家の作品を目の前にして、「彼の作品には様式(スタイル)がない」と批評をぶった。それを聞いたドガはカサットに対して「おまえさんにはスタイルについて、何が解っていると云うんだい?」と云わんばかりに肩をそびやかして苦笑いをしたのだと云う。この態度にカチンと来た負けず嫌いなカサットは、ドガを見返すべく行動を起こす。町へ出て、美しいとは云えない、寧ろ醜く卑しい下女のような少女を敢えて選んでモデルとして雇った。カサットはこの少女に寝入りしなにドレッサーの前で髪を梳かすポーズを取らせこの絵を描いた。やがて出来上がった作品を見せられたドガは感嘆の声を上げ、カサットを賞賛する。「なんて素晴らしいドローイング(線)だ、なんて素晴らしい様式(スタイル)だ!」と。
カサットはドガにこう示したかったのだ。口元はだらしなく歯が覗き、締まらない表情の少女を美化することもなく、必要以上に醜悪に描くこともなく、元より美しくもない、本来であれば普通の画家が取り上げないような主題を選んだとしても、自らの構図、描線、彩色-つまりはこれがカサットの様式-に依って、ごく自然に芸術作品として成立させ得ることが私には可能なのだと。
正直に云ってしまうと、僕は、愛らしい子どもを描くカサットとまるで正反対にあるようなこの絵が好きではない。残念ながら、技術としての評価はともかく、描かれている人物の表情が少しも美しいと思えない。たとえそこに真実の美が在ったとしても、敢えて醜い娘を選んで・・・と云う点で、どうしてもカサットの観察眼に冷酷なまでの厳しさを感じて、見る度それを素直に認められない、抗いたい気持ちが湧いて来るのだ。
ドガはこの絵を1917年に死ぬまで自宅の壁に飾っていた。それも、名だたる彼の名画コレクションの内でも特に良い位置に掲げられ、永きに亘りずっと気に入りの1枚であったと云う。ドガはカサットの中に、自分と同じ価値観と審美眼を見出していたのだろう。例えば、『アプサント』で彼が疲れ果てた女の内面を、暴き晒すかの如く冷淡に画面に滲ませた様と、カサットのこの絵は視点が同じだ。それは彼女がドガに対して、「私はあなたと同じ価値観のスタイルを持っているのよ」と示したかったからこそ、敢えて選んだ手法だったのではないだろうか。
ドガはこんなカサットの気質に、男女の違いは有れ、もう一人の自分を見る様な思いだったのかも知れない。そんなドガは、実はこれ以前に、彼の冷酷な観察眼を以てカサットの内面をえぐり出すかの様な肖像画を1枚描いている。
※参照図右、『カードを持って座るカサット嬢』 ドガ (1884) ワシントン、ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵
この自信満々に冷笑を浮かべた自身の肖像画の描かれ様に、カサットは酷く落ち込み傷ついていたという。また、椅子に前のめりでカードを持つこのポーズは、19世紀末のブルジョワ社会に在って品格有る女性のものとは見られず、カサットのような豊かで分別有る家庭に育った女性を描く構図としては、決して好ましいものではなかった。
「私はこれを私の肖像画として家族に残したくはありません。この絵は芸術的価値が高いものですが、私をたいへん冷淡な人間として表しており、心を苦しめますので、私がモデルだと知られたくないのです」(『岩波 世界の巨匠ドガ』より本文そのまま引用)。
カサットは確かに芸術に於いては勝ち気な女性であったが、それはまだまだ時勢に認められない女流画家と云う職業に対する自負から来るものであり、一女性としてのメアリーは繊細で、脆く、弱い女性でもあったのだ。
◆『庭で仕事をする若い娘(縫いものをする女性)』 (1886) パリ、オルセー美術館
さて、前後編の2回で仕上げようと思っていたメアリー・カサットのお話ですが、色々なエピソードをご紹介したいと欲張り詰め込み過ぎて、何だかんだと随分長くなってしまいました(苦笑)。カサットのものはもちろん、ドガの本やオルセーの図録など資料を調べ、読み直しながら(ウソや間違いを書かないように^^;)書き綴っておりますので、スピードはひどく遅いものと思いますが、最後にもう1編増やして、次回の全3部後編に続けたいと思います。
※なお、このblogは以下の書籍を資料として、それぞれのエピソードなどを要約、要旨としてまとめ、もしくは部分的に引用してご紹介しています。
素晴らしい文章をありがとうございます。
以前に、ボストン美術館で『5時のお茶』(1880)を、メトロポリタン美術館で『ティー・テーブルにつく婦人』 (1883-85)をみたことがあります。メアリー・カサットの知識はほとんどなかったのですが、yk2さんのエントリーをよませていただき大いに興味が湧きました。少し時間をかけて追っかけてみます。
by ivanisevic (2007-10-28 14:49)
カサットの年代記を、絵を軸にして、それが描かかれた経緯というスタイル
で、書いていらして、とてもわかりやすいです。ひとつ、ひとつのエピソードから、カサットという負けん気の強い女性像が浮かびます。ドガをとても
尊敬していたんですね。
「髪を整える少女」で、自分のスタイルを表現しようとしたカサットの積極性と熱情こそが芸術家ですね。「この子どうにかならないの?」と思わせるほど、不快感のリアリティがありますね。
私は個人的には、優雅なティーセットが出てくる絵が好きです。
でも、いろいろなものが描けるカサットの才能の豊かさ、研究熱心さが
ここを読んでわかりました。
落ち込むことが多く、絵筆があまりすすまなかった時代を経て、この先
、カサットは輝くのでしょうか?次回のお楽しみですね。
by TaekoLovesParis (2007-10-29 22:18)
ivanisevicさん、こんばんは。
ご訪問&コメント、ありがとうございます。
おお、ボストンとメトロポリタンでカサットの代表作をご覧になっておられるのですね。羨ましい。
今回の僕のblogは、そもそもどうしてメトロポリタンやボストンに、オルセーに次ぐ様な規模で近代フランス絵画が集められたか、と云うお話をしたくてカサットを取り上げています。彼女は印象派がアメリカに浸透する上で、多大な貢献をするのですよ。駄文でお恥ずかしい限りですが、よろしかったら次回もお付き合い下さいませ。
by yk2 (2007-10-29 23:39)
taekoさん、こんばんは。
今回のお話はカサットの勝ち気な性格に偏ってしまっているのですが、彼女は気の利いた会話で周囲を魅了して巻き込む話術に長けていたそうで、ドガとは違って社交的でもあったようです。それに、確かに批判精神は旺盛だったようですが、認めるものは認める性格で、ライバルと目されてもいいようなる立場に在ったモリゾなどとはお互い連携して技法の研究もしていたようです。同じブルジョワ育ちの女性画家と云うことで、二人には何か共有出来る意識が有ったのかも知れませんね。
>「この子どうにかならないの?」と思わせるほど、不快感のリアリティがありますね
敢えてそこを狙って、ドガに示す為だけに描かれた作品なので、一般の反応などまるで意識せずに作った構図でしょうし、これを他のカサット作品と同じに見るのは、本当はちょっと違うのかも知れませんね。
by yk2 (2007-10-30 00:03)
照明写真でさえ 修正してくれる写真館が賑わっている現在だそうですよ。
絵で肖像画を残していた当時としては、何をかいわんや・・・ということでしょうか。肖像画に関するエピソードは今も昔も、人間の心理をついていて 面白いお話ですね。
「髪を整える少女」では、モデルは別として、腕やひじが美しいと想いました。
by pistacci (2007-10-30 01:33)
描く側、描かれる側、それぞれの気持のずれが、何だか複雑ですね。
カサットは、描かれる側に立った時、以前リドゥル夫人とその家族が抱いた不満を理解するに至ったのでしょうか・・・。
実物と違う、と処刑されないだけいいのかも・・・。
by Inatimy (2007-10-30 21:01)
◆てんとうむしさん : コメントありがとうございます。
。
『庭で仕事をする若い娘(縫いものをする女性)』写真が大きくないので解りにくいかも知れないけど、背景の坂道が横になってるので、ちょっと不思議な肖像画でしょ?。てんちゃんがこの絵を好きだというのは、唯一、花(ジェラニウム)が描かれてるからかな?。
>カチンときた出来事も昇華させていく彼女の勝気さに共感します
ばりばり仕事をこなすご婦人ならではのご意見ですね(^^;。
◆pistacciさん : コメントありがとうございます。
履歴書なんかの証明写真も修正しちゃうんですってねー、びっくりです。技術じゃなくって、依頼する側の意識の方に・・・(苦笑)。まぁ、運転免許の写真が気に入らないと、その期間ず~っと憂鬱だ、って人もいますからねぇ^^;。
>「髪を整える少女」では、モデルは別として、腕やひじが美しいと想いました
そうなんですよ。あと肌の色が白くてきれい、とか。
でもやっぱりどうにも好きになれない絵・・・(苦笑)。
◆Inatimyさん : コメントありがとうございます。
ちょうどInatimyさんのところでも肖像画にまつわるお話が書かれていたので、僕もあの部分でコメントさせて頂きました。世が世なら、処刑ですものねぇ・・・(汗)。でも、一番不幸なのはそんな事で家臣を罰する様なワガママな王に統治されてた国民ですね。善い王様なワケがなさそう・・。
カサットはドガに描かれた自身の肖像画で、いろんな事を考えさせられたでしょうね。
ただ、彼女はデッサンにはとても自信を持っていましたから、リドゥル夫人の絵は間違いなく似ているのだとして、自分の意思主張を曲げませんでした。一方のドガの絵は、似ている似ていないよりも、カサット自身の内面を浮き彫りにさせていたのが本人にとっては苦痛だった。結局、肖像画ってものは、描かれる側にとってはあまりに“有りの儘”だと決して喜ばれない事もある、ってことでしょうか・・・^^;。
by yk2 (2007-10-31 07:47)
前回のときは、お嬢様なのに意思や情熱があってすごいなぁ
なんてのんきなコメントをしましたが、今回のお話はお嬢様という感じは全くなくて、芸術家としての強い女性を感じました。
でも・・・『髪を整える少女』のエピソード。。。結果賞賛されたすごいことなんだろうけれど、読んでたらなんだかモデルの女の子が気の毒になってきました、、、(汗)
そんな気の強いといわれてるカサットさん、恋をしたりしなかったのかなぁ?そんな暇はなかったでしょうか。。。
三部作の最終編どんなふうになっていくのか
楽しみに待ってますね!
by シェリー (2007-10-31 13:20)
シェリーさん、こんばんは。
カサットやモリゾが画家になった時代って、女性にとってはやっぱりすごく制約が多くて、自由が全然無い時代だったでしょ。だから、絵を描いて生計を立てるってことは、主婦としての役目を負えない=妻になれない→結婚出来ない、って直結しちゃったみたいなんですよ。
例えばモリゾのお姉さんエドマ。
彼女もモリゾと一緒に絵を習っていて、なかなか画才があったようなんですが、縁談がまとまった途端に絵はぴたりと止めちゃったんです。
じゃ、モリゾはどうして結婚しても絵を描き続けられたのかは、マネの弟である夫ウジェーヌも絵を嗜んでいたので元より理解があったのと、両家ともお金持ちだったから絵を売る必要なんて全然無かったし、家の勝手向きのこともほとんどしないで済んだからなんですね。
カサットはお父さんに「おまえが絵描きになるのなら、いっそ死んでくれた方がまだましだ」とまで云われて反対されていたので、お嬢様育ちでも、とにかく絵で自立するしか、描き続ける道が無かったのです。
そんな中で、恋はしたのかなぁ・・・。
ドガとそう云う仲だったとも噂されていたようですが、おそらくそれも単に噂に過ぎないレベルの話だったみたいですけどね。
by yk2 (2007-11-02 00:01)
そうだったんですね。。。
でもそんな中でもずっと絵への情熱を持ち続けられたカサットさんって
すごい方ですね。強い女の人に見えても、きっと不安とか孤独とかいっぱいあったかもしれないなぁ。
だから個人的に・・・最終話では、素敵な恋をして、優しい気持ちになって
描く絵も変化していった。。。っていうハッピーエンドだったらいいのになぁ
って期待を込めたんですが、ちょっと違うかなぁ(笑)
続きを楽しみにしてまーす!
by シェリー (2007-11-02 13:01)
シェリーさん、こんばんは。
お返事遅くなりましてすみませぬ。
カサットの青春時代とか、恋愛適齢期がどんなふうだったか、僕も気になるところなんですが、今一つ資料や文献となる書籍が少ないので、あんまり突っ込んだ事は解らないのです。でも、女性であってもプロの画家として誰よりも上手く描きたいと云う強い意志が不安や孤独に勝ったんじゃないのかな。
この先ハッピー・エンドに書けたらいいんですが、ノンフィクションですからねぇ、これ(^^;。
by yk2 (2007-11-07 22:38)
カリフォルニア州からこんにちは。 来年サンフランシスコでメアリー・カサットの展覧会がありますよ。
by サンフランシスコ人 (2007-11-22 07:37)
◆サンフランシスコ人さま
コメントありがとうございます。
日本では今一つカサットの知名度は低くって、あまり展覧会の類は企画されない様で残念です。テーマ的には日本人向きだと思うのですが、あまりにありのままに描くので、可愛くない母子像なんかもあったりして、そこが評価が分かれるトコロなのかも知れませんね。
僕はアメリカに行った事が無いので、いつかカサット巡礼の旅でもしたいものです。
by yk2 (2007-11-23 06:35)
こんばんは^^。
「フィラデルフィア展」でカサットを見てきました。優しい雰囲気の女性らしい絵は観ていて和みますね。
ムンク展もなかなかよかったですよ。レビューはアップしてあります。
by shamon (2007-11-27 20:48)
アメリカでも、カサット展はあまりないです。
by サンフランシスコ人 (2007-11-29 10:45)
◆shamonさん :
フィラデルフィア展、ご覧になりましたか。僕は今度の日曜辺りに行ってこようと思ってます。ムンク良かったですか。観るんだ!、って結構前から書いておられましたものね。
ムンクも気になるのですが、常設展にあるミレーの『ダフニスとクロエ』を観てそのテーマに関心が湧き、少々調べていたら、シャガールが同テーマで挿絵のように作品をシリーズで残している事を知り(本としてまとめられてそう)、今まであまり関心の無かったシャガールを観てみたいと思う様になってます。上野の森にも寄ってこようかなぁ。
◆サンフランシスコ人さま :
そうですか、アメリカでもカサット展はあんまりないのですか。
じゃ、来年のサンフランシスコでの展覧会は貴重なものなのかも知れませんね。在住の友人がいますので、せめて展覧会図録でも取り寄せて送ってもらおうかな^^;。
by yk2 (2007-11-29 23:55)
『来年のサンフランシスコでの展覧会は貴重なものなのかも知れませんね』
そう思いますよ。 全米広しと言えども、サンフランシスコ美術館だけ。アメリカ巡回は行いません。
by サンフランシスコ人 (2007-12-01 08:31)
サンフランシスコ人さま、度々のコメントありがとうございます。
丁度、東京では今フィラデルフィア美術館展が催されていまして、当地と縁の深いカサットの作品も2点展示されています。僕も先日観てきましたので、感想など、その内にまたblogに書きたいと思っております。
サンフランシスコ人さまも、もしカサット展をご覧になるようでしたら、その貴重な展覧会の模様を聞かせて頂けたら嬉しいです。
by yk2 (2007-12-04 00:53)
ワシントンでカサット展を観ましたが、昔なんで模様を忘れました。
by サンフランシスコ人 (2007-12-24 09:11)
「東京では今フィラデルフィア美術館展が催されて.....」
フィラデルフィア美術館に行ったことがあります.....
by サンフランシスコ人 (2015-09-05 01:04)