ハマヤキ故郷へ帰る~横浜東京 明治の輸出陶磁器展 [ART]
6月2日は横浜の開港記念日ってコトで(?)、たまには地元ローカルな展覧会の話題を。
※この記事はかな~り地味な話題な上、文章も説明的で長いので、興味がある方だけ、どうぞ(^^。
JR関内駅から馬車道通りを赤レンガ倉庫方面に向かって5分程真っ直ぐ歩くと、やがて現れるこの緑青色のドームを冠した古めかしいビルは、かつて1880年に外国為替、貿易金融に特化して開業した横浜正金銀行の本店(落成1904年)です。安政の開国以来、貿易港として発展を遂げて来た横浜の、経済面でのモニュメントと云って良い歴史的建造物。
横浜正金銀行は第2次大戦に於ける日本の軍資集めの中心を担ったとされ、戦後にGHQに依って閉鎖されますが、この建物は1947年に普通銀行として創立された東京銀行(東京三菱銀行の前身)横浜支店となり、後に県が地所とともに買い上げました。1969年より国の重要文化財に指定され、現在は神奈川県立歴史博物館として使われています。
現在こちらで『ハマヤキ故郷へ帰る』と題して、“横浜東京 明治の輸出陶磁器”の特別展が開かれています。(※会期6月22日の日曜まで開催)
でも、ハマヤキってなんだか知ってる?。
◇
明治の文明開化の頃に、生糸や茶と並んで日本の主力輸出品の一翼を担うべく東京や横浜で生産された陶磁器があったことをご存じでしょうか?。
「えっ?、東京や横浜が陶器の生産地だったなんて、聞いたことが無いよ」
きっと多くの方がこの様に応えられることと思います。僕も勿論、2~3年前までは全く何も知りませんでした。ある日、元町商店街を歩いていて、ふと視線をやった食器店のショーウィンドーに飾ってあったお皿の横に、偶々“横浜焼”と云う言葉を見掛けるまでは。
“横浜焼”と呼ばれる陶磁器が存在するのだと、その時初めて知った僕は軽い興味を覚えます。早速インターネットでその由来を調べてみることにしました。しかし、その時検索した限りでは製品の写真などビジュアル的な資料は一切見つからず、作風なども全く分からず仕舞い。ただ1点、京急沿線の南太田の地に戦前、真葛窯と呼ばれる横浜焼の代表的な窯元が存在していたことを知った程度でした。現況はおろか、歴史的なことさえほとんど紹介されていなかったのです。あまりの情報の少なさに、その評価はごく一部的なものだったのかな?と感じ、僕もそれ以上は調べようとも思わず、後はすっかり忘れてしまっていたのです。
▼異形の陶器、真葛焼
その僕が、“横浜焼”の代表的陶芸家の作品を初めて実際に目にすることとなったのは、丁度去年の今頃。ダ・ヴィンチの『受胎告知』目当てで出掛けた、上野の東京国立博物館でした。ふらりと立ち寄った常設展示室に、この焼き物は在ったのです。
◆初代・宮川香山 / 『褐釉蟹貼付水鉢』(1881年) ※明治天皇御買上品
何と云う生々しさでしょう。鉢の縁に貼り付けられた渡り蟹の、まるで今にも本当に動き出しそうな姿は驚き以外の何物でもありません。ガラスケースの前後左右、様々な角度から眺めましたが、見れば見る程、これって実は標本でも貼り付けているのでは?と、疑ってしまいたくなるくらいにリアル。その姿が陶器であるとは俄には信じられません。そして、よくよく見ると渡り蟹の下には、もう1匹の渡り蟹が折り重なる様に隠されているではありませんか。その精巧さに、もう、ただただ唖然とするしかありませんでした。
制作年の1881年と云えば、例えばフランスでは印象派の画家たちが未だ認められずにサロンと闘っていた頃のこと。その同じ時期の日本に、凄まじい技術を持った陶工が存在していたんだなぁと感心しつつ、僕はこの鉢を写真に収めて帰って来ました。そうして家に戻ってから、この作者について調べてみました。すると、彼こそが“横浜焼”の第一人者で、前述の真葛窯の創設者であった宮川香山(みやがわ・こうざん)その人であることが判ったのです。
◇
“横浜焼”は一時期の短い間に作られた輸出専用品だったため、国内にはほとんど現存しておらず、永く一般から忘れられた陶器でした。今回の展覧会は、その多くが個人蒐集家の田邊哲人さんのコレクションから構成されています。田邊さんは40年以上にわたり横浜焼を蒐集、独自に研究し、横浜生まれのこの陶磁器がかつて存在していたことを広く一般に知って貰いたいと情熱を傾け、1点1点、地道に海外から買い戻し続けて来られました。その蒐集の充実により、日本の美術界に於ける香山らの再評価が進んだと云っても過言ではないそうです。陶磁器の専門家、研究者でさえ、田邊さんのコレクションを目にするまで、横浜焼の実物に触れる機会はほとんど無かったと云うのですから。
それらの横浜焼コレクションと、宮川香山の真葛焼作品が一度にまとめて観られる貴重な機会が、今回の特別展なのです。
僕が香山に特別興味があるため、ここまでの書き方ですと、横浜焼の作風=真葛窯、宮川香山の様に思われてしまうかも知れませんが、香山の作品は特出して別次元の芸術品であり、他の追随を許さない1点物の世界。誰にでもそうそう真似出来る物ではありませんし、そもそも量産が利かないので商売には不向きです。一般の生産者の多くは、カップ&ソーサーや皿、花瓶など、もっと日常的な陶器を作って輸出していました。これが、いわゆる“ハマヤキ”と呼ばれるもので、僕も今回初めて目にするものです。今回の展覧会では、そのハマヤキ以前の東京生まれの陶器たちも紹介しています。
▼どうして陶器?、どうして東京?
そもそも、陶器に適した土が産出されず、窯を構えるには不向きな土地である東京や横浜が、何故陶磁器の産地と成り得たのでしょうか?。その謎を解く鍵は、1867年に開催されたパリ万国博覧会。日本が初めて参加した国際博覧会です。世界42カ国が参加し、日本からは江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩がそれぞれ出展。7ヶ月の会期中、約1500万人もの人々が来場したと記録されています。
その万博で、日本の職人の手から成る完成度の高い工芸品はヨーロッパの人々間に日本ブームを巻き起こすこととなるのです。特に彼等の目に留まり評判となったのが薩摩焼でした。
明治に入り、維新政府は貿易の輸入超過による銀の大量流出と不平等条約の改正に頭を痛めていましたが、陶磁器の輸出は外貨獲得だけでなく、西洋各国に対する日本文化の発信、高レベルにある技術力の紹介にも成りうると考え、国策としてその生産と振興に力を注いで行きます。19世紀に盛んに欧米で開催された万国博覧会はまさにその発表見本市。明治政府にとって輸出の拡大と国家の地位向上のための最大の機会だったのです。
1.東京錦窯~瓢池園
明治政府は殊の外万博を重視し、明治6年(1873)、次に開催されるウィーン万国博覧会に照準を定め、その出展作を制作する目的で博覧会事務局付属磁器製造所を浅草に開きます。これを所長に就任した服部杏圃が東京錦窯(きんがま)と名付けました。しかし、前述の通り東京近郊には良質の陶土が有りません。だったら元より窯業の盛んな土地で生産した製品を輸出した方が話が早い様に感じますが、やはり商売は買い手在ってのもの。海外で好まれる作風も考えなくてはなりません。ですが、世の中はついこの間まで帯刀ちょんまげ鎖国の江戸時代。外国文化とほとんど接点の無い当時の地方都市にそれを求めるのはまだまだ無理な話。政府のお膝元として目が届き、外国人居留地が在ってマーケティングに有利な横浜に近い東京に製作所が開かれたのは、至極当たり前のことだったのでしょう。ここに瀬戸や京都など、古くからの窯業生産地から一度焼成した素地を取り寄せ、絵付けを行うデザイン・スタジオのような窯を作ることにしたわけです。彼等が西欧諸国にセールスする為に選んだコンセプトは、それまでの磁器デザインの基本だった文様に代えて、絵画をそのままに製品に載せると云うものでした。これが後に「東京絵付け」と呼ばれる様になっていきます。
写真左 ◆服部杏圃 / 『色絵花果実図皿』 東京国立博物館蔵
写真右 ◆東京錦窯 晴圃 / 『上絵金彩新羅三郎図花瓶』
東京錦窯はウィーン万国博覧会の開催に伴いその任務を終了し解散しますが、その事務官だった河原徳立が陶画工職人らを引き継ぎ、東京深川に瓢池園(ひょうちえん)と云う絵付け工場を設立。その作風は更なる絵画主義を推し進めたものとなります。また起立工商会社(きりゅうこうしょう)と云う、もう一つの東京錦窯の流れを汲む工芸グループもあり、こちらは政府の援助を受け、金工、漆工、染織工など様々な分野の職人をも擁し海外向けの工芸作品を生産していました。そのどちらにも共通したのは、やはり精巧な絵画を陶器に描くこと。細密な絵付けこそが、どうやら欧米人に一番に好印象を与えるポイントだと、彼等は考えていたようです。
写真左 ◆瓢池園 / 『墨絵山水図額』 東京国立博物館蔵
写真右 ◆瓢池園 / 『上絵金彩烏瓜図耳付花瓶』
写真左はA4より大きいくらい(あまり正確なサイズの記憶ではありません)のタイル(?)で、描かれている墨絵は狩野元信筆の『琴棋書画図』の写し。紙の上そのままに墨の滲み、ぼかしまでもが見事に再現されていました。でもこれって、実際に西洋人に売れたのでしょうか?。実に素晴らしい出来映えですが、鑑賞には紙に描かれた絵そのものでも充分なワケで、僕にはこの陶板の使い道(※)が思い浮かばないのですが・・・(^^;。
(※)・・・この様な陶板画は、主として額装され観賞用にされていたそうです。
写真右の花瓶は、模様などに金地を使って一見華やかですが、カラスウリの熟した実が蔓から下がった絵柄は、どこか枯淡な味わいも醸し出しています。それはきっと、しおれかけた白い花や枯れ始めた葉から感じるのでしょう。成熟し、果実を実らせれば花や葉は役目を終え、やがて朽ち落ちてゆくもの。なんだか、まるで人生のようですね。花瓶の首部分に付けられた飾りは蝶がモティーフで、侘びた植物の風情と合わせてエミール・ガレを思い出させます。いや、これこそがガレを魅了した“ジャポニズム”。「もののあはれ」の世界観ですね。
参考的な話になりますが、瓢池園はその描画レベルの高さを買われ、後にノリタケを創設する貿易会社、森村組の輸出用洋食器の絵付けを担う様になり、明治32年(1889)には森村組の事業専属の瓢池園・分工場を愛知県名古屋市長塀町に設立するのですが、やがてこれが不振に陥り、明治42年に森村組傘下の日本陶器合名会社(現ノリタケ)に吸収される事となります。ノリタケは、その一部として瓢池園の流れを汲む会社でもあるのですね。
2.隅田焼 ※こちら以下は6月5日に追記しました
これらの政府振興策によって新興した絵付け窯とは別に、幕末より江戸で活動していた者たちも無くはありませんでした。その代表的な存在が瀬戸の陶工、井上良斎(1822-1899)で、彼は幕末に江戸へ出て、美濃国の高須藩松平摂津守の四谷藩邸で御庭焼(江戸時代に大名などが居城内や藩邸内に窯を築き、独自の趣向性をもって焼成した陶磁器のこと)に携わっていましたが、1866年(慶応2)に独立し、浅草橋場町に窯を開きます。陶土は瀬戸より取り寄せ、完成した作品は東京錦窯の流れを汲む起立工商会社などが取り扱いを行っていたようです。
写真左 ◆初代・井上良斎 / 『高浮彫雲竜花瓶』
写真右 ◆張田緑田 / 『高浮彫鷲襲群猿大壺』
黒雲の中で身をくねらせ空を泳ぐ竜は、雄々しいと云えば聞こえが良いですが、ちょっとおどろおどろしい姿にさえ思える花瓶。一方、右の大壺には猿を掴み上げ荒波の上を行く大鷲が刻まれて、実に力強く猛々しい。これらのモティーフは素地に彫刻した様な立体感をもって表現され、我々現代人の好みとはどうあれ、ダイナミックな仕上がりの作品になっているのは確かです。良斎はこのように少々奇妙な、荒ぶる作風の焼き物を「隅田焼」と命名して、得意としていました。陶芸界の“カブキ者”ってところだったのかな?(^^;。
今回これらの作品を観るまで、動物などのモティーフを立体的な造形で表現する作風、所謂「高浮彫」は、先に紹介した宮川香山がパイオニアなのかと思っていたのですが、決して彼1人の専売特許と云う分けではなかったようですね。緑田については詳しいことは判らないようなのですが、良斎の元で働いていた隅田焼の陶工の1人だそうです。
◆初代・井上良斎 / 『上絵金彩孔雀図香炉』
かと云って、一筋縄では行かないのが初代・良斎の作風。一転して、金彩の美しい典雅な景色のこの孔雀図香炉も、同じ明治前期頃に作られた良斎の作なのです。双方の作風のギャップにはただ驚くばかり(苦笑)。
おどろおどろしい姿の隅田焼は国内にはほとんど残されておらず、どうやら輸出専用として制作されていた物の可能性があるようなのです。詳細は判らずとも、横浜居留地に店舗を構えていたヴァンタイン商会が取り扱っていたと云う記録が残っているので、当時の欧米にはこのような作風に対する一定のニーズが有ったのかもしれませんね。でも、どんな人が買ってたんだろ?(^^;。
写真左 ◆二代目・井上良斎 / 『釉下彩紫陽花図花瓶』
写真右 ◆二代目・井上良斎 / 『釉下彩紫陽花香炉』 東京国立博物館蔵
これから梅雨時と云う季節ですから、自然、こう云った旬のモティーフには目が行きます。こちらも猛々しい隅田焼とは対極をなす、優しい色合いをした紫陽花。
二代目良斎(1845-1905)は実は養子で、初代とは17歳しか年齢差がありませんでした。元々瀬戸の陶工、二代川本治兵衛の子として瀬戸に生まれ、30歳の頃に養子縁組を結んだのです。初代と同じく高浮彫の隅田焼も勿論手掛けましたが、彼は透明釉の下で顔料を発色させる“釉下彩”と呼ばれる技法に長けていて、この紫陽花2作品の様に艶やかな美しさを持った作品の方を得意としていたようです。シカゴ・コロンブス万国博(明治26年)、第4回内国勧業博覧会(同28)、パリ万国博(同33)などに次々作品を出展し、毎年の様に受賞を重ね、明治陶磁器界の中心的陶工として活躍して行きます。
なお良斎の名は三代まで引き継がれ、三代目は横浜へ窯を移し、移住してからも隅田焼を名乗りました。
3.その他の主立った東京の陶工たち
初代良斎に教えを受けた門下の陶工に瀬戸出身の加藤友太郎、元旗本の家柄だった竹本隼太らがいて、彼等は共通して新しい技術の取得や窯業知識の研究に熱心で、博覧会などに於いても華々しい受賞歴を誇ります。作品の評価も高く、今回の特別展にはそれぞれ東京芸大美術館、東京国立博物館収蔵の作品が展示されています。
写真左 ◆竹本隼太 / 『紫紅釉瓶』 東京国立博物館蔵
写真右 ◆加藤友太郎 / 『色絵朝顔文手桶形花生』 東京藝術大学大学美術館蔵
また、政府が窯業指導のためにドイツから招いた科学者ワグネル(1831-92)の存在が明治東京の陶磁器産業界にもたらした影響も外せません。彼が日本各地で最新技術や釉薬、顔料に関する科学的知識を広めたことで、日本の窯業は確実に近代化が進みました。自らも作陶し、吾妻焼(後に旭焼に改称)と名付けた陶磁器を創始、日本風の絵付けを行った作品が残されています。後には東京職工学校(現在の東京工業大学)で教鞭を執り、人材の育成にも貢献。良斎に学んだ加藤友太郎はワグネルにも師事し、陶寿紅と呼ばれた朱赤の顔料を開発するなど研究に勤しみ、やがて東京を代表する陶工との名声を獲得して行きます。
◆ゴットフリート・ワグネル / 『釉下彩桧扇図皿』 東京国立博物館蔵
成瀬誠志は美濃国出身で、後に東京へ出て「東京薩摩」の代表的な陶工となりました。中国風の絵画を施した彼の作品は、細部にわたり他の追随を許さぬ程の精緻な絵付けが為されています。正直に云ってしまうと、僕はオリジナリティが薄いと云う意味で、日本人が描く中国風の絵はあまり好みでないのですが、成瀬の作は展示作品の中でも特に絵付けの細密さは抜きん出ていて、思わず目を見張る出来映え。この香炉などは造形の美しさも加わって、とても印象深い作品でした。
◆成瀬誠志 / 『上絵金彩七福神香炉』 (個人蔵)
★なお、本頁の記述は、神奈川歴史博物館編纂の展覧会カタログの解説を元にしています。
(次回へ続く)
続きはこちらから→ http://ilsale-diary.blog.so-net.ne.jp/2008-06-05
※この記事はかな~り地味な話題な上、文章も説明的で長いので、興味がある方だけ、どうぞ(^^。
JR関内駅から馬車道通りを赤レンガ倉庫方面に向かって5分程真っ直ぐ歩くと、やがて現れるこの緑青色のドームを冠した古めかしいビルは、かつて1880年に外国為替、貿易金融に特化して開業した横浜正金銀行の本店(落成1904年)です。安政の開国以来、貿易港として発展を遂げて来た横浜の、経済面でのモニュメントと云って良い歴史的建造物。
横浜正金銀行は第2次大戦に於ける日本の軍資集めの中心を担ったとされ、戦後にGHQに依って閉鎖されますが、この建物は1947年に普通銀行として創立された東京銀行(東京三菱銀行の前身)横浜支店となり、後に県が地所とともに買い上げました。1969年より国の重要文化財に指定され、現在は神奈川県立歴史博物館として使われています。
現在こちらで『ハマヤキ故郷へ帰る』と題して、“横浜東京 明治の輸出陶磁器”の特別展が開かれています。(※会期6月22日の日曜まで開催)
でも、ハマヤキってなんだか知ってる?。
明治の文明開化の頃に、生糸や茶と並んで日本の主力輸出品の一翼を担うべく東京や横浜で生産された陶磁器があったことをご存じでしょうか?。
「えっ?、東京や横浜が陶器の生産地だったなんて、聞いたことが無いよ」
きっと多くの方がこの様に応えられることと思います。僕も勿論、2~3年前までは全く何も知りませんでした。ある日、元町商店街を歩いていて、ふと視線をやった食器店のショーウィンドーに飾ってあったお皿の横に、偶々“横浜焼”と云う言葉を見掛けるまでは。
“横浜焼”と呼ばれる陶磁器が存在するのだと、その時初めて知った僕は軽い興味を覚えます。早速インターネットでその由来を調べてみることにしました。しかし、その時検索した限りでは製品の写真などビジュアル的な資料は一切見つからず、作風なども全く分からず仕舞い。ただ1点、京急沿線の南太田の地に戦前、真葛窯と呼ばれる横浜焼の代表的な窯元が存在していたことを知った程度でした。現況はおろか、歴史的なことさえほとんど紹介されていなかったのです。あまりの情報の少なさに、その評価はごく一部的なものだったのかな?と感じ、僕もそれ以上は調べようとも思わず、後はすっかり忘れてしまっていたのです。
▼異形の陶器、真葛焼
その僕が、“横浜焼”の代表的陶芸家の作品を初めて実際に目にすることとなったのは、丁度去年の今頃。ダ・ヴィンチの『受胎告知』目当てで出掛けた、上野の東京国立博物館でした。ふらりと立ち寄った常設展示室に、この焼き物は在ったのです。
◆初代・宮川香山 / 『褐釉蟹貼付水鉢』(1881年) ※明治天皇御買上品
何と云う生々しさでしょう。鉢の縁に貼り付けられた渡り蟹の、まるで今にも本当に動き出しそうな姿は驚き以外の何物でもありません。ガラスケースの前後左右、様々な角度から眺めましたが、見れば見る程、これって実は標本でも貼り付けているのでは?と、疑ってしまいたくなるくらいにリアル。その姿が陶器であるとは俄には信じられません。そして、よくよく見ると渡り蟹の下には、もう1匹の渡り蟹が折り重なる様に隠されているではありませんか。その精巧さに、もう、ただただ唖然とするしかありませんでした。
制作年の1881年と云えば、例えばフランスでは印象派の画家たちが未だ認められずにサロンと闘っていた頃のこと。その同じ時期の日本に、凄まじい技術を持った陶工が存在していたんだなぁと感心しつつ、僕はこの鉢を写真に収めて帰って来ました。そうして家に戻ってから、この作者について調べてみました。すると、彼こそが“横浜焼”の第一人者で、前述の真葛窯の創設者であった宮川香山(みやがわ・こうざん)その人であることが判ったのです。
“横浜焼”は一時期の短い間に作られた輸出専用品だったため、国内にはほとんど現存しておらず、永く一般から忘れられた陶器でした。今回の展覧会は、その多くが個人蒐集家の田邊哲人さんのコレクションから構成されています。田邊さんは40年以上にわたり横浜焼を蒐集、独自に研究し、横浜生まれのこの陶磁器がかつて存在していたことを広く一般に知って貰いたいと情熱を傾け、1点1点、地道に海外から買い戻し続けて来られました。その蒐集の充実により、日本の美術界に於ける香山らの再評価が進んだと云っても過言ではないそうです。陶磁器の専門家、研究者でさえ、田邊さんのコレクションを目にするまで、横浜焼の実物に触れる機会はほとんど無かったと云うのですから。
それらの横浜焼コレクションと、宮川香山の真葛焼作品が一度にまとめて観られる貴重な機会が、今回の特別展なのです。
僕が香山に特別興味があるため、ここまでの書き方ですと、横浜焼の作風=真葛窯、宮川香山の様に思われてしまうかも知れませんが、香山の作品は特出して別次元の芸術品であり、他の追随を許さない1点物の世界。誰にでもそうそう真似出来る物ではありませんし、そもそも量産が利かないので商売には不向きです。一般の生産者の多くは、カップ&ソーサーや皿、花瓶など、もっと日常的な陶器を作って輸出していました。これが、いわゆる“ハマヤキ”と呼ばれるもので、僕も今回初めて目にするものです。今回の展覧会では、そのハマヤキ以前の東京生まれの陶器たちも紹介しています。
▼どうして陶器?、どうして東京?
そもそも、陶器に適した土が産出されず、窯を構えるには不向きな土地である東京や横浜が、何故陶磁器の産地と成り得たのでしょうか?。その謎を解く鍵は、1867年に開催されたパリ万国博覧会。日本が初めて参加した国際博覧会です。世界42カ国が参加し、日本からは江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩がそれぞれ出展。7ヶ月の会期中、約1500万人もの人々が来場したと記録されています。
その万博で、日本の職人の手から成る完成度の高い工芸品はヨーロッパの人々間に日本ブームを巻き起こすこととなるのです。特に彼等の目に留まり評判となったのが薩摩焼でした。
明治に入り、維新政府は貿易の輸入超過による銀の大量流出と不平等条約の改正に頭を痛めていましたが、陶磁器の輸出は外貨獲得だけでなく、西洋各国に対する日本文化の発信、高レベルにある技術力の紹介にも成りうると考え、国策としてその生産と振興に力を注いで行きます。19世紀に盛んに欧米で開催された万国博覧会はまさにその発表見本市。明治政府にとって輸出の拡大と国家の地位向上のための最大の機会だったのです。
1.東京錦窯~瓢池園
明治政府は殊の外万博を重視し、明治6年(1873)、次に開催されるウィーン万国博覧会に照準を定め、その出展作を制作する目的で博覧会事務局付属磁器製造所を浅草に開きます。これを所長に就任した服部杏圃が東京錦窯(きんがま)と名付けました。しかし、前述の通り東京近郊には良質の陶土が有りません。だったら元より窯業の盛んな土地で生産した製品を輸出した方が話が早い様に感じますが、やはり商売は買い手在ってのもの。海外で好まれる作風も考えなくてはなりません。ですが、世の中はついこの間まで帯刀ちょんまげ鎖国の江戸時代。外国文化とほとんど接点の無い当時の地方都市にそれを求めるのはまだまだ無理な話。政府のお膝元として目が届き、外国人居留地が在ってマーケティングに有利な横浜に近い東京に製作所が開かれたのは、至極当たり前のことだったのでしょう。ここに瀬戸や京都など、古くからの窯業生産地から一度焼成した素地を取り寄せ、絵付けを行うデザイン・スタジオのような窯を作ることにしたわけです。彼等が西欧諸国にセールスする為に選んだコンセプトは、それまでの磁器デザインの基本だった文様に代えて、絵画をそのままに製品に載せると云うものでした。これが後に「東京絵付け」と呼ばれる様になっていきます。
写真左 ◆服部杏圃 / 『色絵花果実図皿』 東京国立博物館蔵
写真右 ◆東京錦窯 晴圃 / 『上絵金彩新羅三郎図花瓶』
東京錦窯はウィーン万国博覧会の開催に伴いその任務を終了し解散しますが、その事務官だった河原徳立が陶画工職人らを引き継ぎ、東京深川に瓢池園(ひょうちえん)と云う絵付け工場を設立。その作風は更なる絵画主義を推し進めたものとなります。また起立工商会社(きりゅうこうしょう)と云う、もう一つの東京錦窯の流れを汲む工芸グループもあり、こちらは政府の援助を受け、金工、漆工、染織工など様々な分野の職人をも擁し海外向けの工芸作品を生産していました。そのどちらにも共通したのは、やはり精巧な絵画を陶器に描くこと。細密な絵付けこそが、どうやら欧米人に一番に好印象を与えるポイントだと、彼等は考えていたようです。
写真左 ◆瓢池園 / 『墨絵山水図額』 東京国立博物館蔵
写真右 ◆瓢池園 / 『上絵金彩烏瓜図耳付花瓶』
写真左はA4より大きいくらい(あまり正確なサイズの記憶ではありません)のタイル(?)で、描かれている墨絵は狩野元信筆の『琴棋書画図』の写し。紙の上そのままに墨の滲み、ぼかしまでもが見事に再現されていました。でもこれって、実際に西洋人に売れたのでしょうか?。実に素晴らしい出来映えですが、鑑賞には紙に描かれた絵そのものでも充分なワケで、僕にはこの陶板の使い道(※)が思い浮かばないのですが・・・(^^;。
(※)・・・この様な陶板画は、主として額装され観賞用にされていたそうです。
写真右の花瓶は、模様などに金地を使って一見華やかですが、カラスウリの熟した実が蔓から下がった絵柄は、どこか枯淡な味わいも醸し出しています。それはきっと、しおれかけた白い花や枯れ始めた葉から感じるのでしょう。成熟し、果実を実らせれば花や葉は役目を終え、やがて朽ち落ちてゆくもの。なんだか、まるで人生のようですね。花瓶の首部分に付けられた飾りは蝶がモティーフで、侘びた植物の風情と合わせてエミール・ガレを思い出させます。いや、これこそがガレを魅了した“ジャポニズム”。「もののあはれ」の世界観ですね。
参考的な話になりますが、瓢池園はその描画レベルの高さを買われ、後にノリタケを創設する貿易会社、森村組の輸出用洋食器の絵付けを担う様になり、明治32年(1889)には森村組の事業専属の瓢池園・分工場を愛知県名古屋市長塀町に設立するのですが、やがてこれが不振に陥り、明治42年に森村組傘下の日本陶器合名会社(現ノリタケ)に吸収される事となります。ノリタケは、その一部として瓢池園の流れを汲む会社でもあるのですね。
2.隅田焼 ※こちら以下は6月5日に追記しました
これらの政府振興策によって新興した絵付け窯とは別に、幕末より江戸で活動していた者たちも無くはありませんでした。その代表的な存在が瀬戸の陶工、井上良斎(1822-1899)で、彼は幕末に江戸へ出て、美濃国の高須藩松平摂津守の四谷藩邸で御庭焼(江戸時代に大名などが居城内や藩邸内に窯を築き、独自の趣向性をもって焼成した陶磁器のこと)に携わっていましたが、1866年(慶応2)に独立し、浅草橋場町に窯を開きます。陶土は瀬戸より取り寄せ、完成した作品は東京錦窯の流れを汲む起立工商会社などが取り扱いを行っていたようです。
写真左 ◆初代・井上良斎 / 『高浮彫雲竜花瓶』
写真右 ◆張田緑田 / 『高浮彫鷲襲群猿大壺』
黒雲の中で身をくねらせ空を泳ぐ竜は、雄々しいと云えば聞こえが良いですが、ちょっとおどろおどろしい姿にさえ思える花瓶。一方、右の大壺には猿を掴み上げ荒波の上を行く大鷲が刻まれて、実に力強く猛々しい。これらのモティーフは素地に彫刻した様な立体感をもって表現され、我々現代人の好みとはどうあれ、ダイナミックな仕上がりの作品になっているのは確かです。良斎はこのように少々奇妙な、荒ぶる作風の焼き物を「隅田焼」と命名して、得意としていました。陶芸界の“カブキ者”ってところだったのかな?(^^;。
今回これらの作品を観るまで、動物などのモティーフを立体的な造形で表現する作風、所謂「高浮彫」は、先に紹介した宮川香山がパイオニアなのかと思っていたのですが、決して彼1人の専売特許と云う分けではなかったようですね。緑田については詳しいことは判らないようなのですが、良斎の元で働いていた隅田焼の陶工の1人だそうです。
◆初代・井上良斎 / 『上絵金彩孔雀図香炉』
かと云って、一筋縄では行かないのが初代・良斎の作風。一転して、金彩の美しい典雅な景色のこの孔雀図香炉も、同じ明治前期頃に作られた良斎の作なのです。双方の作風のギャップにはただ驚くばかり(苦笑)。
おどろおどろしい姿の隅田焼は国内にはほとんど残されておらず、どうやら輸出専用として制作されていた物の可能性があるようなのです。詳細は判らずとも、横浜居留地に店舗を構えていたヴァンタイン商会が取り扱っていたと云う記録が残っているので、当時の欧米にはこのような作風に対する一定のニーズが有ったのかもしれませんね。でも、どんな人が買ってたんだろ?(^^;。
写真左 ◆二代目・井上良斎 / 『釉下彩紫陽花図花瓶』
写真右 ◆二代目・井上良斎 / 『釉下彩紫陽花香炉』 東京国立博物館蔵
これから梅雨時と云う季節ですから、自然、こう云った旬のモティーフには目が行きます。こちらも猛々しい隅田焼とは対極をなす、優しい色合いをした紫陽花。
二代目良斎(1845-1905)は実は養子で、初代とは17歳しか年齢差がありませんでした。元々瀬戸の陶工、二代川本治兵衛の子として瀬戸に生まれ、30歳の頃に養子縁組を結んだのです。初代と同じく高浮彫の隅田焼も勿論手掛けましたが、彼は透明釉の下で顔料を発色させる“釉下彩”と呼ばれる技法に長けていて、この紫陽花2作品の様に艶やかな美しさを持った作品の方を得意としていたようです。シカゴ・コロンブス万国博(明治26年)、第4回内国勧業博覧会(同28)、パリ万国博(同33)などに次々作品を出展し、毎年の様に受賞を重ね、明治陶磁器界の中心的陶工として活躍して行きます。
なお良斎の名は三代まで引き継がれ、三代目は横浜へ窯を移し、移住してからも隅田焼を名乗りました。
3.その他の主立った東京の陶工たち
初代良斎に教えを受けた門下の陶工に瀬戸出身の加藤友太郎、元旗本の家柄だった竹本隼太らがいて、彼等は共通して新しい技術の取得や窯業知識の研究に熱心で、博覧会などに於いても華々しい受賞歴を誇ります。作品の評価も高く、今回の特別展にはそれぞれ東京芸大美術館、東京国立博物館収蔵の作品が展示されています。
写真左 ◆竹本隼太 / 『紫紅釉瓶』 東京国立博物館蔵
写真右 ◆加藤友太郎 / 『色絵朝顔文手桶形花生』 東京藝術大学大学美術館蔵
また、政府が窯業指導のためにドイツから招いた科学者ワグネル(1831-92)の存在が明治東京の陶磁器産業界にもたらした影響も外せません。彼が日本各地で最新技術や釉薬、顔料に関する科学的知識を広めたことで、日本の窯業は確実に近代化が進みました。自らも作陶し、吾妻焼(後に旭焼に改称)と名付けた陶磁器を創始、日本風の絵付けを行った作品が残されています。後には東京職工学校(現在の東京工業大学)で教鞭を執り、人材の育成にも貢献。良斎に学んだ加藤友太郎はワグネルにも師事し、陶寿紅と呼ばれた朱赤の顔料を開発するなど研究に勤しみ、やがて東京を代表する陶工との名声を獲得して行きます。
◆ゴットフリート・ワグネル / 『釉下彩桧扇図皿』 東京国立博物館蔵
成瀬誠志は美濃国出身で、後に東京へ出て「東京薩摩」の代表的な陶工となりました。中国風の絵画を施した彼の作品は、細部にわたり他の追随を許さぬ程の精緻な絵付けが為されています。正直に云ってしまうと、僕はオリジナリティが薄いと云う意味で、日本人が描く中国風の絵はあまり好みでないのですが、成瀬の作は展示作品の中でも特に絵付けの細密さは抜きん出ていて、思わず目を見張る出来映え。この香炉などは造形の美しさも加わって、とても印象深い作品でした。
◆成瀬誠志 / 『上絵金彩七福神香炉』 (個人蔵)
★なお、本頁の記述は、神奈川歴史博物館編纂の展覧会カタログの解説を元にしています。
(次回へ続く)
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