goodtimes & badtimes [思ったこと感じたこと]
2016年06月26日(日曜日)
終了間近の『メディチ家の至宝』展を観るため、久し振りに東京都庭園美術館へ行った。終了間際とは云え、ちょっと地味な印象の展覧会だから・・・と高をくくっていたら、予想外の入場制限。梅雨の晴れ間の炎天下での行列。待ち時間30分越えは結構キツかったな~。
★
耐震工事完了後最初の展覧会だった『幻想絶佳 :アール・デコと古典主義』以来の庭園美術館。その時はまだ庭園は閉鎖されていたけっけ。久し振りだから、ちょっと散策してみようか。
旧朝香の宮邸の玄関を左右で護る狛犬たち。ところで、この狛犬って犬なの?、獅子なの?って考えたことありません?(^^。
狛犬のルーツって、「古代インドで、仏の両脇に守護獣としてライオンの像を置いたのが狛犬の起源」とwikiにはあるけど、日本には唐時代の中国から「獅子」の形で入って来たものだそうで、諸説の1つとしてはライオン自体を知らない当時の大和民族がそれを異形の犬なんだと解釈した・・・ってコトらしい(※詳しくはwikiを読んでね^^)。で、基本的には麒麟などと同じで想像上の動物、霊獣とされているので、結局は犬でも獅子でもないわけなんだけど、元が守護獣ライオンであったってコトに限定すれば、「獅子」は間違いではない、ってこと。
なんで、こんなこと書いてみたかって云うと、この日、この狛犬の前でなされていた見知らぬ年配の女性たちのこんな会話から。
「建物は洋風なのに、玄関には東洋風の獅子が置かれてて神社みたいね。」
「あらやだ、これは狛犬だからお獅子じゃなくって犬よ~。いやね~、○子さんったら、ゲラゲラ。」
。
庭には時期なので、カメラやスマホを片手にアジサイの写真を撮ろうとする人が幾人も。僕は今年はもうおなかいっぱいアジサイは撮影したのであっさりと、ね(^^。
アジサイの代わりに他の花や植物を・・・と探してみたけど、撮りたいものはそう多くはなく。
そうして、以前は庭に置かれていた彫刻やオブジェも、美術館再公開から1年以上経っても未だ元の場所に戻されていないものも幾つか。パンサーや空を見つめるキリンくんは今いずこ?。
そんな中、この作品は元からの場所にきちんと戻されていたね。
オシップ・ザッキン(Ossip Zadkine)の『住まい / La Demeure(1963)』。
以前(『夏時間の庭園美術館』→ http://ilsale-diary.blog.so-net.ne.jp/2010-07-26)もこの作品を採り上げているけれど、その時僕は一人の友人をイメージしてblogを書いた。その頃、その友人はあまり良いとは云えない時期を過ごしていて、独り自分の殻に閉じこもっている様に思えたんだ。放っておくと、どんどんみんなから離れて行ってしまう様に。
それだから、その時の僕の目にはこのザッキンが、複雑に絡みついてしまい上手く解けない何か=懊悩の様に見えていてしまっていたんだな。僕の精神状態が、思っていたことが、この作品を勝手にそう云う心理に重ねて見てしまっていた、ってことなんだ。あの時は、そんなふうにしか見えなかったんだなぁ・・・。
ごく普通の想像、見方をすれば、向かって左が男性像で、右が女性像なんだろう。それに、これまでは気がついていなかった(=見落としていた)子供らしき姿も左下に見つけた。まぁ、何故か子供は全面に出されない様な表現なので判りにくいと云えば判りにくいけど(※言い訳です・・・^^ゞ)、これまで何度もこの作品を写真に撮っていたくせに、ちゃんとに作品の全容を見て、タイトルも含めて作者の意図をしっかりと理解しようとは考えてなかったんだな、僕は(苦笑)。それまでは、彼ら二人の男女が恋人同士の様に思えていたけど、子供を含めた「家族」ならば、僕が抱いていた作品のイメージも随分と変わる。
改めてまじまじと眺めると、女性は少し微笑んでいる様にも思える。男性の腕を両手に抱いて、穏やかな表情で寄り添っている。難解なパズルや問題がテーマの第1にある訳じゃない。しっかりとした、簡単には断ち切れない関係性、絆(=家族)をザッキンは『住まい』とタイトルしてるんだよね、きっと。
"傷つけあって 言葉も枯れて それでもふたりは許しあって
goodtimes & badtimes すべて受け止めて
goodtimes & badtimes 寄り添うふたり"
「寄り添う」をキーワードに、ごく自然に頭に浮かんだ懐かしい歌の歌詞(by小田ぢい)を断片的に思い出して口ずさんでみる。
"また明日"、か。
夏の日が傾きかけた庭園美術館の庭で、そんなことをひとり思う午後なのでした。
終了間近の『メディチ家の至宝』展を観るため、久し振りに東京都庭園美術館へ行った。終了間際とは云え、ちょっと地味な印象の展覧会だから・・・と高をくくっていたら、予想外の入場制限。梅雨の晴れ間の炎天下での行列。待ち時間30分越えは結構キツかったな~。
耐震工事完了後最初の展覧会だった『幻想絶佳 :アール・デコと古典主義』以来の庭園美術館。その時はまだ庭園は閉鎖されていたけっけ。久し振りだから、ちょっと散策してみようか。
旧朝香の宮邸の玄関を左右で護る狛犬たち。ところで、この狛犬って犬なの?、獅子なの?って考えたことありません?(^^。
狛犬のルーツって、「古代インドで、仏の両脇に守護獣としてライオンの像を置いたのが狛犬の起源」とwikiにはあるけど、日本には唐時代の中国から「獅子」の形で入って来たものだそうで、諸説の1つとしてはライオン自体を知らない当時の大和民族がそれを異形の犬なんだと解釈した・・・ってコトらしい(※詳しくはwikiを読んでね^^)。で、基本的には麒麟などと同じで想像上の動物、霊獣とされているので、結局は犬でも獅子でもないわけなんだけど、元が守護獣ライオンであったってコトに限定すれば、「獅子」は間違いではない、ってこと。
なんで、こんなこと書いてみたかって云うと、この日、この狛犬の前でなされていた見知らぬ年配の女性たちのこんな会話から。
「建物は洋風なのに、玄関には東洋風の獅子が置かれてて神社みたいね。」
「あらやだ、これは狛犬だからお獅子じゃなくって犬よ~。いやね~、○子さんったら、ゲラゲラ。」
。
庭には時期なので、カメラやスマホを片手にアジサイの写真を撮ろうとする人が幾人も。僕は今年はもうおなかいっぱいアジサイは撮影したのであっさりと、ね(^^。
アジサイの代わりに他の花や植物を・・・と探してみたけど、撮りたいものはそう多くはなく。
そうして、以前は庭に置かれていた彫刻やオブジェも、美術館再公開から1年以上経っても未だ元の場所に戻されていないものも幾つか。パンサーや空を見つめるキリンくんは今いずこ?。
そんな中、この作品は元からの場所にきちんと戻されていたね。
オシップ・ザッキン(Ossip Zadkine)の『住まい / La Demeure(1963)』。
以前(『夏時間の庭園美術館』→ http://ilsale-diary.blog.so-net.ne.jp/2010-07-26)もこの作品を採り上げているけれど、その時僕は一人の友人をイメージしてblogを書いた。その頃、その友人はあまり良いとは云えない時期を過ごしていて、独り自分の殻に閉じこもっている様に思えたんだ。放っておくと、どんどんみんなから離れて行ってしまう様に。
それだから、その時の僕の目にはこのザッキンが、複雑に絡みついてしまい上手く解けない何か=懊悩の様に見えていてしまっていたんだな。僕の精神状態が、思っていたことが、この作品を勝手にそう云う心理に重ねて見てしまっていた、ってことなんだ。あの時は、そんなふうにしか見えなかったんだなぁ・・・。
ごく普通の想像、見方をすれば、向かって左が男性像で、右が女性像なんだろう。それに、これまでは気がついていなかった(=見落としていた)子供らしき姿も左下に見つけた。まぁ、何故か子供は全面に出されない様な表現なので判りにくいと云えば判りにくいけど(※言い訳です・・・^^ゞ)、これまで何度もこの作品を写真に撮っていたくせに、ちゃんとに作品の全容を見て、タイトルも含めて作者の意図をしっかりと理解しようとは考えてなかったんだな、僕は(苦笑)。それまでは、彼ら二人の男女が恋人同士の様に思えていたけど、子供を含めた「家族」ならば、僕が抱いていた作品のイメージも随分と変わる。
改めてまじまじと眺めると、女性は少し微笑んでいる様にも思える。男性の腕を両手に抱いて、穏やかな表情で寄り添っている。難解なパズルや問題がテーマの第1にある訳じゃない。しっかりとした、簡単には断ち切れない関係性、絆(=家族)をザッキンは『住まい』とタイトルしてるんだよね、きっと。
"傷つけあって 言葉も枯れて それでもふたりは許しあって
goodtimes & badtimes すべて受け止めて
goodtimes & badtimes 寄り添うふたり"
「寄り添う」をキーワードに、ごく自然に頭に浮かんだ懐かしい歌の歌詞(by小田ぢい)を断片的に思い出して口ずさんでみる。
"また明日"、か。
夏の日が傾きかけた庭園美術館の庭で、そんなことをひとり思う午後なのでした。